葦津珍彦翁祥月御命日

本日六月十日は、葦津珍彦(あしつうずひこ)翁の祥月御命日(二十八年祭)。翁とその父耕次郎先生の眠る鎌倉の「葦津家之墓」を命日の前に墓参させて頂いた。

鎌倉にある葦津家奥津城

大東亜戦争敗戦により国土が焦土と化し、我が日本は古今未曾有の危機に瀕した。占領下GHQが過酷な反神道政策を採ることを予想した翁は日本独自の歴史と神聖天皇崇敬の精神伝統を守る「神道の社会的防衛者」となる事を決意し神社本庁設立に尽力された。
そして真正日本を取り戻す為、紀元節復活運動・靖国神社国家護持運動・日本国憲法下で初の大嘗祭挙行・剣璽御動座復古・政教分離裁判支援・元号法制定運動・内廷費増額運動などの理論的支柱となり果敢に行動された民族派の重鎮であられた。
葦津珍彦翁は明治42(1909)年、福岡に生まれた。代々、筥崎宮(はこざきぐう 筥崎八幡宮)の社家だった。父耕次郎は激烈な神道信仰者であった。しかし、社家に生まれながらも神職として一生を送らず、満州軍閥の張作霖を説き鉱山を開拓、「朝鮮神宮」創建を伊藤博文に提言、台湾から檜の大木を移入し全国数百カ所の社寺建設等をした豪傑であった。特筆すべきは「朝鮮神宮」に関する所作である。アジアの融和を願う耕次郎の思いとは真逆に進み天照大神と明治天皇を祀る事となった。これでは強圧的植民地支配象徴となってしまい日韓両民族乖離反目の禍根となると論じた。そして「まず第一に朝鮮の国土に所縁の深いの祖神を祀るべきだ」と斎藤実朝鮮総督に猛抗議を繰り広げた。当時の多数派であった強権的植民地支配主義者と対峙しアジアとの融和を深く考え、大日本帝国占領地域内で飢寒に苦しむ支那人難民の救済に尽力を注がれた人徳の士でもあった。
珍彦翁は若き頃に社会主義思想や無政府主義思想に傾倒したというが、父・耕次郎の熱い人間性を振り返り、尊皇神道へ転じられた後、真正日本を取り戻す為、国体護持・神社護持運動の理論的支柱となり果敢に行動された偉人である。
 
大墓公阿弖利爲の末裔
銭新井弁天に続く細道を折れ、佐助共同墓地の葦津家奥津城に続く道

銭新井弁天に続く細道を折れ、佐助共同墓地の葦津家奥津城に続く道

鎌倉市佐助共同墓地の立て看板

鎌倉市佐助共同墓地の立て看板

豊かな鎌倉の森に佇む葦津家奥津城

豊かな鎌倉の森に佇む葦津家奥津城

葦津珍彦大人之命 佐助市所有共同墓地に鳥居

葦津珍彦大人之命 佐助市所有共同墓地に鳥居

葦津家奥津城 鎌倉ではお墓の前に建てられた鳥居としては、源頼朝墓の鳥居(昭和39年(1964年)建立)とその東にある大江広元墓の鳥居を入れて三墓現存する

葦津家奥津城 鎌倉では墓所前に建てられた鳥居としては、源頼朝墓の鳥居(昭和39年建立)とその東にある大江広元墓の鳥居を入れて三墓現存する

葦津珍彦大人之命墓所 石燈籠(常夜灯)が2基並んでいる

葦津珍彦大人之命墓所 石燈籠(常夜灯)が2基並んでいる

葦津家奥津城 裏面に建立者として翁の名がある

葦津家奥津城 裏面に建立者として葦津翁の名がある

葦津家奥津城 墓誌にある父耕次郎や妻テルとともに眠る

葦津家奥津城 墓誌にある父耕次郎や妻テルとともに眠る

葦津家奥津城 清掃する鈴木

葦津家奥津城 清掃する鈴木

葦津珍彦翁は多くの名著を残されており若き同氏同憂の諸氏も是非読んでほしい。
【葦津翁著書一覧】
※ 永遠の維新者《出版社》葦津事務所
※ 国家神道とは何だったのか《出版社》神社新報社
※ 近代民主主義の終末―日本思想の復活《出版社》葦津事務所
※ 日本の君主制 天皇制の研究《出版社》葦津事務所
※ 大アジア主義と頭山満《出版社》葦津事務所
※ 武士道―戦闘者の精神 《出版社》神社新報社
 
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靖国神社について

靖國神社は明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりです。
明治12年(1879)に「靖國神社」と改称されて今日に至っております。