繰り返して北方領土問題を学ぼう

我が日本の固有の領土である北方領土とは?

北方領土,千島列島,Kuril Islands,

北方領土,千島列島,Kuril Islands,

1945年(昭和20年)、日本が、ポツダム宣言を受諾し降伏する意図を明らかにしたあとに、ソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)は、一度も外国の領土になったことのない我が国の固有の領土である全千島列島(Kuril Islands)と北方四島に侵攻した。
その後、ソ連は一方的にソ連領に「編入」し、全ての日本人を強制退去させ、ソ連が崩壊してロシア連邦(以下ロシア)となった現在も、ロシアは北方四島と全千島列島を法的根拠(国際法を無視)なく占拠し続けている。

「北方領土」とはどの島々のことか?

日本固有の領土・北方4島及び全千島列島図

日本固有の領土・北方4島及び全千島列島図

北方領土は、北海道本島の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島の島々の総称である。そして千島列島Kuril Islands)は日本の領土である。領土の確定は、日露間の交渉の歴史(各時代の条約)が重要であり、平和裏に締約された領土交渉である「樺太千島交換条約」を線引きとする事は、国際法に於ける慣例で考察すれば妥当な事である。
であるから国際法に照らし合わせば全千島列島の返還は正当なる要求なのである。
千島列島(クリル列島)は、得撫島以北占守島までを指し・得撫島・幌筵島・占守島などの島々で構成される。

「北方四島」とは? (択捉島、国後島、 色丹島及び歯舞群島)

北方四島とは、北海道本島の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島の島々である。総面積は、5,003.1㎢で、千葉県や愛知県とほぼ同じ面積に相当していて、広大な面積を有する地域なのである。

択捉島(えとろふとう)

択捉島は、千島列島南部に位置し、面積3186.64km2、長さは約214kmに及ぶ細長い島であり、同列島内で面積が最大の島である。日本では、本土4島を除いて面積最大の島であり、複数の活火山が存在する火山島である。

正統の後、屈辱と理不尽なる歴史

1217年(建保5年)

鎌倉時代、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤堯秀を蝦夷管領に任命した。

 

15~16 世紀ごろ、北海道南西部にある渡島半島から蝦夷(北海道)を征服していった蠣崎氏は、渡党の長となった。

1593(文禄 2)年

日本統一政権であった豊臣秀吉から蠣崎慶廣が朱印状を受ける。

1599(慶長 4)年

徳川家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。

翌年、蠣崎を「松前氏」と改名し蝦夷地全域を統治した。

1604(慶長 9)年

家康より黒印制書(黒印状)を得て、蝦夷地は米の生産がないので特例として交易権(アイヌ交易の独占権)と徴役権を認められた。  

1635年(寛永12年)
松前藩は北海道全島及び千島・樺太などを含む蝦夷地の地方の調査を行った。

1643年(寛永20年)
オランダ東インド会社の山師のような探検家
マルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島と得撫島に辿り着いた。この男は狂喜し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名し、択捉島は「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付け、国後島に上陸した。

この行為は言ってみれば、欲につられて財宝を探し回った挙句、人の庭に無断で入り勝手に測量して表札を立て自分の物だと吹聴する 気狂いの無礼千万なる行為である。

1644年(正保元年)
「正保御国絵図」松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。択捉島が日本地図に記載された最初とされている。

北方領土の歴史 正保御国絵図

北方領土の歴史 正保御国絵図

徳川幕藩の中期以降、蝦夷地・唐太(樺太)・千島方面に外国船が頻出し、松前藩の秘匿にもかかわらず、国内輿論として北方の危機が叫ばれるようになった。       

 

1661年(寛文元年)
「勢州船北海漂着記」には伊勢国松坂の七郎兵衛の船が漂流の末に千島に到達していたこと、「恵渡路部漂流記」には1712年(正徳2年)に薩摩国大隅の船が択捉島に漂着していることについての記述がある。

1689年

ロシアのピョートル1世と清の康煕帝の間で締結された国境協定「ネルチンスク条約」(支那が外国と対等に結んだ最初の近代的条約)締結により、ロシア毛皮業者がラッコを求め北太平洋に進出していく中、アイヌと出会い交易が始まった。          1715年(正徳5年)
松前藩主は幕府に「北海道本島・樺太・千島列島、勘察加は自藩領」と報告。

1731年(享保16年)
国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。

1754年(宝暦4年)

松前藩が1754年(宝暦4年)に国後場所を設置しアイヌとの交易を開始した。当初、国後場所の領域には択捉島や得撫(ウルップ)島も含まれていた。
1766年(明和3年)

コサック(軍事的共同体)のイワン・チョールヌイが、択捉島に渡来し毛皮税(サヤーク)の徴収と偽り、アイヌから無理やり毛皮を取り上げた。そして隣の得撫島に移り乱暴狼藉を繰り返した。

1769年(明和6年)

チョールヌイが引き揚げた後も乱暴狼藉が止まず、アイヌ人の怒りが爆発しロシア人を襲撃21名を殺害した後、千島から追放した。

1771年(明和8年)
「択捉島のアイヌ」と「羅処和島(マカンル 千島列島の中部にある島)
のアイヌ」が団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する。

1779年(安永8年)

千島列島から南下をしたロシア人40人が、根室半島のノッカマップに上陸し、厚岸で通商交渉を求めたが、応待した松前藩士は国禁であるとこれを断わた。

1781年(天明元年)

工藤平助(仙台藩江戸詰の藩医・経世論家)が、蝦夷地以北に関する情報として「赤蝦夷(ロシア人)風説考」を著しロシアの南下を警告した。

1785年(天明5年)

青島俊蔵・最上徳内ら5名を普請役とする蝦夷地検分隊を派遣した。

1786年(天明6年)
最上徳内が同島を探検した際の上陸時に、ロシア人同士のトラブルにより取り残された3名の在留ロシア人がおり、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている(ロシアでは、国家に帰属し納税意識をもたせるため、進出した地で正教の布教がなされていた)。ただし、在留ロシア人たちは1791年までに帰国した。

1789年(寛政元年)

岸や霧多布、国後場所といった奥蝦夷地の請負を担わせていた請負商人飛騨屋がアイヌに対して数々の非道を重ねた事で、近世蝦夷史最大の事件「クナシリ・メナシの戦い」というアイヌによる蜂起虐殺がおきてしまった。

北方領土 クナシリ・メナシの戦い関係地名図

北方領土 クナシリ・メナシの戦い関係地名図

1798年(寛政10年)
択捉島を影響下に置く意図をもつロシアに対抗するため、近藤重蔵がアイヌのエカシ(乙名)の了承のもと、日本領を示す「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。その翌年には蝦夷地を幕府直轄領(天領)にし、高田屋嘉兵衛に航路を運営させる。

1800年(寛政12年)
国後場所から新たに択捉場所が分立し、「エトロフ会所」を振別に開設したほか、役職のあるアイヌ(役蝦夷)が住民1,118人を調べ恵登呂府村々人別帳(戸籍)を作成した(場所請負制成立後の行政も参照)。さらに高田屋は老門に番屋を建て、漁場10か所を開き和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれていった。

1801年(享和元年)

幕府は富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。

1806年(文化3年) 文化露寇

ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフが長崎に来航し江戸幕府に通商要求をしたが幕府は通商を拒絶し続けた。

日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないと判断し部下のニコライ・フヴォストフが樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。

1807年(文化4年) 文化露寇
択捉島紗那村と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ率いる露米会社の武装集団によって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。

紗那は、弘前藩と盛岡藩が警固を行っていたが、火力の差に圧されて奥地へ退避している。なお、会所に赴任中だった間宮林蔵も参戦し、徹底抗戦を主張した。この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた。その後も、盛岡藩など東北諸藩が警備にあたった。

1816年(文化13年)
日本人の漂流民を乗せたロシア船パヴェル号が択捉島に来航、このとき督乗丸の小栗重吉、音吉、半兵衛の3名が帰国。

1855年(安政2年)
日露和親条約が締結される。この時日本はアイヌを日本国民としたうえで、アイヌの生活圏が日本領であると主張し、同島の領有をロシアに認めさせた。

開国後は、同島は仙台藩の領地となり、仙台藩兵が駐留し警固した。

1923年(大正12年)
北海道二級町村制が施行される。択捉郡留別村、紗那郡紗那村、蘂取郡蘂取村の3郡3村が設置され、紗那村の中心地である紗那が同島の中心地となって、警察署・小学校・郵便局などの官公署が置かれた(現在も日本の制度上は、この3郡3村は存続している)。

周辺は、親潮(千島海流)と黒潮(日本海流)とがぶつかる海域であって、水産資源が豊かである優良な漁場であったので、漁業が主たる産業となり、入植者が増加した。

1940年(昭和15年)

大日本帝国陸軍によって占守郡の幌筵島に北千島臨時要塞が建設され、帝国海軍も幌筵島、新知郡の松輪島に逐次、飛行場を整備しソ連赤軍の南下に備えた。

 

1941年(昭和16年)11月20日
海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また択捉島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。そして情報統制下の単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結、真珠湾攻撃のため11月26日にハワイへ向け出港していった。この島外との徹底した情報の遮断は大東亜戦争が開戦した12月8日まで続けられた。

1944年(昭和19年)
千島方面防衛のため、天寧に陸軍第27軍司令部が新設され、海上機動第4旅団と独立混成第43旅団が編成される。

1945年(昭和20年)
本土決戦準備のため、海上機動第4旅団含め千島列島から多くの部隊が内地に転用される。終戦時には第89師団が配置されていた。

8月15日当時、留別村2,258人 紗那村1,001人 蕊取村349人の合計3,608人の住人が、択捉島に居住していた。

1945年(昭和20年)
大東亜戦争終戦。ポツダム宣言第7条により、日本国の諸地点は連合国に占領されたが、一般命令第1号により、北方4島を含む千島列島は、ソ連占領地となった。

1946年(昭和21年)1月29日
GHQからSCAPIN-677が命令された。 これは、日本は同島を含む千島列島の施政権を停止させるものだった(ただし、領有権の放棄を命じたものではなかった)。直後の2月2日、ソ連はこれらの地域を自国領に編入した。それ以降、火事場泥棒の共産主義者国家ソ連とその後継国家であるロシア連邦による実効支配が続き今日に至っている。

1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ平和条約

大東亜戦争におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために平和条約が締結された。

北方領土の歴史 サンフランシスコ平和条約により大日本帝国が放棄した領土図

サンフランシスコ平和条約により日本が放棄した領土図

歯舞群島(はぼまいぐんとう)

歯舞群島あるいは歯舞諸島は、北海道島の東端である根室半島の納沙布岬の沖合3.7kmから北東に点在する複数の狭小な島からなる。中央に位置する志発島が最も大きい。なお、諸島であるが北方四島のうちの1島として扱われる。歯舞は北方四島全体の2%の面積を占める。

色丹水道(しこたんすいどう)

・海馬島(かいばじま、とどじま)
・多楽島(たらくとう)
・カブ島(かぶとう)
・カナクソ岩(かなくそいわ)
・カブト島(かぶととう)

多楽水道(たらくすいどう)

・志発島(しぼつとう)

志発水道(しぼつすいどう)

・春苅島(はるかるとう)
・勇留島(ゆりとう)

勇留水道(ゆりすいどう)

 秋勇留島(あきゆりとう)

 水晶島(すいしょうとう)

 萌茂尻島(もえもしりとう)

 オドケ島(おどけとう)

貝殻島(かいがらじま)

貝殻島は、北方領土の歯舞群島にある低潮高地。北海道根室半島の納沙布岬の北東沖合3.7kmに位置し、納沙布岬と水晶島を隔てる海峡、珸瑤瑁水道のほぼ中間地点にあり、北方領土の島の中では最も日本本土に近い。硬い礫岩、火成岩で構成され、貝殻島灯台が設置されている。

屈辱と理不尽なる歴史

1945年(昭和20年)9月27日
マッカーサー・ラインが設定され、日本漁民が自由に出漁できる範囲とできない範囲とが分離された。北方周辺海域では、ラインは納沙布岬と水晶島の中間に引かれたため、貝殻島周辺は日本の海域となる。

1948年(昭和23年)12月
GHQは米駆逐艦コワゾール号で再調査した結果として、マッカーサー・ラインを納沙布岬と貝殻島の中間に引きなおす。この結果、貝殻島周辺はソ連の海域となり、漁民は危険を覚悟で操業を続けたため拿捕が相次いだ。マッカーサー・ラインは講和条約発効3日前に廃止されたが、中間ラインと言う事実上の国境として残された。

1957年(昭和32年)

日本領歯舞群島貝殻島にソ連国境警備隊が上陸する。旧日米安保条約は現行安保条約と異なり、日本を防衛する義務をアメリカに課しておらず、米軍は出動しなかった。

1963年(昭和38年)
日ソ(日ロ)貝殻島昆布採取協定が結ばれる。以降ソ連(現在はロシア連邦)に理不尽極まりない入漁料を支払ってコンブ漁を続けている。

1991年(平成3年)
ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。

色丹島(しこたんとう)

色丹島は、北海道根室半島の東、納沙布岬の北東約75kmの位置する島である。413mの斜古丹山を中心に島全体が比較的なだらかな丘陵になっている。島の名の由来は、アイヌ語の「シ・コタン(大きな村)」に由来する。

国後島(くなしりとう)

国後島は、北海道知床半島から見て根室海峡の東の対岸に位置する島で、面積1489.27 km2、長さは123kmに及ぶ細長い島であり、沖縄本島より大きく、日本では、本土4島を除いて択捉島に次いで2番目の大きさを持つ島である。

島の名前はアイヌ語のキナシリ(草・島)、あるいはクンネシリ(黒い島)に由来するという。

屈辱と理不尽なる歴史

1945年(昭和20年)
日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連赤軍が
日ソ中立条約(5ヵ年の有効期限があるのを無視し)を破棄して千島列島に侵攻を開始し、大東亜戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が国後島に上陸して、占領した。

1946年(昭和21年)12月
GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1948年(昭和23年)までにほぼ全員の日本人が北海道本土に強制送還された。

1956年(昭和31年)
日ソ共同宣言による国交回復以降も、日本政府の返還要求をソ連が拒否。

 

「北方領土は日本固有の領土である」といえるのか?

江戸幕府の時代、1799年から1800年にかけて北方領土のほか、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として我らの祖先が血と汗をもってが開拓してきた。

1855年には日本とロシアとの間で平和的・友好的な形で日魯通好条約が調印され、その条約は、それまでに自然に成立していた択捉島とウルップ島との間の国境を、そのまま確認したのである。

北方領土の歴史 樺太千島交換条約による図

北方領土の歴史 樺太千島交換条約による図

1875年(明治8年)樺太・千島交換条約

我が国は「千島列島」(シュムシュ島からウルップ島までの18の島々)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することを決定した。この結果、千島列島全島が日本の領土になったのである。

北方領土の歴史 日露戦争の講和条約 ポーツマス条約による図

日露戦争の講和条約 ポーツマス条約による図

1905年(明治38年)

日露戦争の結果ポーツマス条約により、ロシアは樺太の南半(北緯50度以南)を日本に割譲した。

1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦した。大東亜戦争直後、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日の間に北方四島のすべてを火事場泥棒の如く占領した。当時、四島にはロシア人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させたのである。

※ サンフランシスコ平和条約(1951年)で、日本は南樺太と、千島列島を放棄しましたが、この条約にいう「千島列島」には北方領土は含まれていない。ソ連はこの条約に署名せず、条約の当事国となっていない。

「北方四島が我が国固有の領土」という根拠は何か? 繰り返す!

1.日露両国は、今から160年以上前の1855年2月7日に、日魯通好条約を結び、両国の国境を択捉島と、その北に位置するウルップ島の間と決定した。つまり択捉島までを日本の領土としたのである。

2.1875年には、両国は樺太千島交換条約を結び、我が国はロシアに対して樺太全島を譲り渡す代わりに、千島列島最北部のシュムシュ島からウルップ島までの18島をロシアから譲り受けたのである。これにより、我が国の領土は、択捉島までの北方4島はだけでなく、ウルップ島から北の千島列島まで拡大した。

当然の事ながら日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、血と汗をもってこれらの島々を開拓して来たのである。
 それ以前も、ロシアの勢力が得撫(ウルップ)島より南にまで及んだことは一度もない。

1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島と得撫島の間の国境をそのまま確認するものであった。それ以前も以降も、北方四島が他国の領土となったことは一度もない。
 しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した直後の同年8月28日から9月5日の間に北方四島のすべてを占領した。当時、四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降今日に至るまで、ソ連、ロシアにより,法的根拠のない形で占拠が続いている。

1993年の「東京宣言」とはどのようなものですか?

ソ連崩壊後の1993年10月、訪日したロシアのエリツィン大統領と細川護熙総理との間で署名された文書。この宣言は、北方四島の歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の島名を列挙して、「北方領土問題とは、その帰属に関する問題である」と位置付けるとともに、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国間で合意の上作成された諸文書、法と正義の原則を基礎として解決するという明確な交渉指針を示している。その後、日露間においては、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという東京宣言の方針が繰り返し確認されてきているが?

1956年当時、なぜ平和条約が締結されずに、「日ソ共同宣言」という名称の条約が締結されたのですか?

1956年当時、日ソ両国は平和条約を締結すべく交渉を行っていたが、我が国が一貫して返還を主張した北方四島のうち国後島及び択捉島の帰属の問題について合意が達成できなかったため、とりあえず共同宣言を締結して外交関係を回復し、平和条約交渉を継続することとして、領土問題の解決を将来にゆだねた当時の政府の弱腰の産物である。

1956年の日ソ共同宣言とはどのようなものですか?

ソ連がサンフランシスコ平和条約への署名を拒否したため、我が国はソ連との間で平和条約交渉を別途行うこととなり、1956年、ソ連との間では日ソ共同宣言を締結して、戦争状態を終了させ、外交関係を再開した。日ソ共同宣言は、両国の立法府での承認を受けて批准された法的拘束力を有する条約である。
 同宣言において、両国は、正常な外交関係が回復された後、平和条約の交渉を継続することとなっており、またソ連は、平和条約の締結後に歯舞群島及び色丹島を我が国に引き渡すこととなっていたが・・・

年 表

1945年8月9日 – ソ連の対日参戦

ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を無視して、信義に悖る対日参戦。

1945年8月14日 – 大日本帝国は「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾

1945年8月28日~9月5日 – ソ連による北方四島侵攻・占領

ソ連軍が千島列島及び北方四島を武力により占領。

1951年9月 – サンフランシスコ平和条約

日本は千島列島と南樺太に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄しました(「千島列島」に北方四島は含まれない)。
ソ連はこの条約に署名しなかったため、条約当事国とならなかった。

1955年6月 – 日ソ間交渉開始

両国の間で個別の平和条約を結ぶための交渉が開始。

1956年10月 – 日ソ共同宣言

両国は「日ソ共同宣言」に署名。
1 平和条約締結に関する交渉を続けることに合意した上で、国交を回復させた。
2 ソ連は、歯舞群島及び色丹島については、平和条約締結後、日本に引き渡すことに同意した。

(日ソ共同宣言 第9項)
 両国は、平和条約の締結について、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を続けることに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。 ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

1960年 – 日米安保条約の改定

ソ連側は、1960年の日米安保条約の改定を受け、1956年の日ソ共同宣言の領土に関する条項を一方的に否定した。

1972年 – 日ソ外相会談

大平正芳外相から、国際司法裁判所の判決を仰ぐ可能性を示唆。グロムイコ外相は即座にこれを拒否。

1991年4月 日ソ共同声明

ソ連の元首としては、初めてゴルバチョフ大統領が来日。海部俊樹総理と会談し、「日ソ共同声明」に署名。

   「声明」中では、
1 北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが、初めて文書の形で確認された。
2 この後、日本は、北方四島の日本への帰属が確認されれば、実際の返還の時期及び態様、条件については柔軟に対応するとの方針を採用した。

(日ソ共同声明 第4項)
 これまでに行われた共同作業、特に最高レベルでの交渉により、一連の概念的な考え方、すなわち、平和条約が、領土問題の解決を含む最終的な戦後処理の文書であるべきこと、友好的な基盤の上に日ソ関係の長期的な展望を開くべきこと及び相手側の安全保障を害すべきでないことを確認するに至った。

1993年10月 – 東京宣言

エリツィン大統領が来日し、細川護熙総理と会談。「東京宣言」に署名。

   「宣言」中では、
1 領土問題を、北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題と位置づけられた。

2 四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化するとの手順を明確化した。

3 領土問題を、(1)歴史的・法的事実に立脚し、(2)両国間で合意の上作成された諸文書、及び(3)法と正義の原則を基礎として解決すると明確な交渉指針を示した。

4 ソ連時代の約束が、日ロ間で引き続き適用されることを確認。

(東京宣言 第2項)
 日本国総理大臣及びロシア連邦大統領は、両国関係における困難な過去の遺産は克服されなければならないとの認識に共有し、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって、両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する。この関連で、日本国政府及びロシア連邦政府は、ロシア連邦がソ連邦と国家としての継続性を有する同一の国家であり、日本国とソ連邦との間のすべての条約その他の国際約束は日本国とロシア連邦との間で引き続き適用されることを確認する。

1997年11月 – クラスノヤルスク合意

橋本龍太郎総理とエリツィン大統領の間で、「東京宣言に基づき2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことを合意。

1998年4月 – 川奈合意

エリツィン大統領が訪日し、静岡県伊東市川奈で橋本総理と会談。
「平和条約が東京宣言第2項に基づいて四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けて日露の友好協力に関する原則等を盛り込むべきこと。」で一致。

2001年3月 – イルクーツク声明

ロシア・イルクーツクにおいて、森喜朗総理とプーチン大統領が会談し、「イルクーツク声明」に署名。

   「声明」中では、
1 1956年の日ソ共同宣言が、交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを文書で確認。

2 その上で、1993年の東京宣言に基づき、四島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことを再確認だけで何も進まず・・・

2003年1月 – 日露行動計画

モスクワにおいて、小泉純一郎総理とプーチン大統領が会談し、日露行動計画を採択。
同計画及び共同声明において、北方領土問題では、過去の諸合意を基に四島の帰属の問題を解決して平和条約を可能な限り早期に締結し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきであるとの決意を確認だけで何も進まず・・・

2013年4月 – 日露パートナーシップ共同声明

モスクワにおいて、安倍総理とプーチン大統領が会談し、日露パートナーシップ共同声明を採択しただけで何も進まず・・・

  「声明」中では、
1 第二次世界大戦後67年を経て日露間で平和条約が締結されていない状態は異常であることで一致。
2 両首脳の議論に付すため、平和条約問題の双方に受入れ可能な解決策を作成する交渉を加速化させるとの指示を自国の外務省に対し共同で与えることで合意。

2016年5月 – 日露首脳会談

 ロシア・ソチにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行ったが何も進まず・・・

1 双方に受入れ可能な解決策の作成に向け、「新しいアプローチ」で、交渉を精力的に進めていくとの認識を共有した。
2 プーチン大統領から経済分野をはじめ幅広い分野での協力への関心が示され、安倍総理から、日露経済交流の促進に向け作業を行っていることを紹介し,8項目からなる協力プランを提示した。

8項目:(1)健康寿命の伸長,(2)快適・清潔で住みやすく,活動しやすい都市作り,(3)中小企業交流・協力の抜本的拡大,(4)エネルギー,(5)ロシアの産業多様化・生産性向上,(6)極東の産業振興・輸出基地化,(7)先端技術協力,(8)人的交流の抜本的拡大

2016年9月 – 日露首脳会談

ロシア・ウラジオストクにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

 安倍総理から、平和条約締結問題については、ソチでの会談を踏まえ、我々首脳同士でしっかりフォローしたいと口先だけでごまかしか?
その後、両首脳二人の間で、時間をかけて、真剣な中にも打ち解けた雰囲気の中で、「新しいアプローチ」に基づく交渉を具体的に進めていく道筋が見えてくるような議論が行われた。

2016年11月 – 日露首脳会談

ペルー・リマにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行ったがだけで何も進まず・・・

1 安倍総理から、ウラジオストクの会談で時間をかけて真剣に話し合った結果を受けて,この2か月半の間、更に考えを深めてきたと述べた。
2 プーチン大統領から、両国外務省間で平和条約締結交渉が継続していることへの言及がありました。この問題については、その後、両首脳だけの間で意見交換が行われた。

2016年12月 – 日露首脳会談

山口県長門市及び東京において、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

1 両首脳二人の間で、ソチ、ウラジオストク、リマでの会談を踏まえ、元島民の方々の故郷への自由な訪問、四島における日露両国の特別な制度の下での共同経済活動、平和条約問題について率直かつ非常に突っ込んだ議論を行った。元島民の方々から託された手紙をプーチン大統領に直接伝達した。
2 議論の結果、平和条約問題を解決する両首脳自身の真摯な決意を表明するとともに、四島において共同経済活動を行うための特別な制度に関する協議の開始に合意。北方四島の未来像を描き、その中から解決策を探し出す未来志向の発想の「新しいアプローチ」に基づき、平和条約締結交渉の枠の中で今後協議。また、元島民の方々が自由に墓参・故郷訪問したいとの切実な願いを叶えるため、人道上の理由に立脚して、あり得べき案を迅速に検討することで合意したが、案の定何も進まず。

2017年4月 – 日露首脳会談

ロシア・モスクワにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

昨年12月の首脳間の合意事項の具体的な進展として、以下の3点で一致した。
(1)航空機を利用した元島民による特別墓参の実現(6月中にも実施)。
(2)共同経済活動に関する四島への官民現地調査団を派遣(5月中にも実施)。
(3)本年8月末の歯舞群島への墓参の際に追加的な出入域ポイントを設置。

こうした取組を積み重ね、四島における協力で様々な成果を出していく姿を日本人と現在四島に住んでいるロシア人が実感することは、平和条約の問題の解決の意義への理解に繋がるものであり、平和条約締結に向けたプロセスの一環である。

2017年7月 – 日露首脳会談

ドイツ・ハンブルクにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

本年4月のモスクワでの首脳会談における合意事項が着実に実現していることを確認し、歓迎した。昨年12月の合意事項の実現に向けた着実な取組みを通じて両国の信頼を深めることが、平和条約の締結につながるとの共通認識の下で議論した。

(1)北方四島における共同経済活動
ア 6月末に派遣された官民調査団による現地調査が極めて有意義であり、今後の検討の加速につながることを確認した。
イ 8月下旬にモスクワで外務次官級の協議を開催することで一致した。現地調査の結果も踏まえ、9月の首脳会談に向けて、今後必要となる法的枠組みの議論も含めて、プロジェクトの具体化に向けた議論を進める。

(2)元島民による北方四島への往来の円滑化
ア 6月に天候を理由に実現しなかった航空機を利用した特別墓参について、双方が実現に向け十分な準備を行ったことを評価した。
9月の適切な時期に実現すべく調整していくことで一致した。
イ 閉じられた区域へのアクセスについても議論した。

2017年9月 – 日露首脳会談

ロシア・ウラジオストクにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

両首脳は、北方四島における共同経済活動に関し、昨年12月の首脳間の合意事項に基づく具体的な進展として、早期に取り組むプロジェクトとして以下5件の候補を特定した。
今後、双方の立場を害さない法的枠組みを検討し、できるものから実施していくことで一致した。
また、これら以外のプロジェクトの可能性も引き続き協議していく事となった。
(1)海産物の共同増養殖プロジェクト
(2)温室野菜栽培プロジェクト
(3)島の特性に応じたツアーの開発
(4)風力発電の導入
(5)ゴミの減容対策

両首脳は、5件のプロジェクト候補の検討のため、10月初めを目途に追加的な現地調査を行うこと、各プロジェクトの具体的検討と全てのプロジェクトに共通して必要となる人の移動の枠組みに関する検討を加速することで一致した。
これらの検討を進めるため、今後、局長級作業部会を設ける事となった。

また、海上交通の安全確保の観点から、双方の法的立場を害さない形で、貝殻島灯台の改修プロジェクトを検討する事となった。

両首脳は、元島民の方々のための人道的措置として、アクセスが閉ざされていた国後島の瀬石周辺への墓参が8月に実現したこと、8月末の歯舞群島墓参の際に臨時の追加的な出入域ポイントが設置されて元島民の方々の身体的負担が大きく軽減されたことを高く評価した。

両首脳は、9月下旬を目途に航空機を利用した特別墓参を実施することを確認した。

安倍総理から、元島民の方々のより自由な往来に向けた協議継続を働きかけた。

2017年11月 – 日露首脳会談

ベトナム・ダナンにおいて、安倍総理とプーチン大統領が日露首脳会談を行った。

両首脳は、北方四島における共同経済活動について、第2回現地調査で有意義な結果が得られたことを歓迎した。
双方の法的立場を害さない形で、来春に向けてプロジェクトを具体化するための検討を加速させ、プロジェクトの内容に関する作業部会及び人の移動に関する作業部会を年内に開催し、次官級協議を年明け早々にも開催することで一致した。

また、元島民の方々のための人道的措置として、航空機による特別墓参を始め、来年以降も元島民の方々がより自由な往来をできるよう、更なる改善策を取っていくことで一致し、早期に次官級で協議する事となった。

テタテ会談では、平和条約締結問題について相当突っ込んだやりとりが行われました。領土問題はやはり短期で解決できる問題ではない。百年の単位で長期的戦略のもと粘り強い交渉を繰り返していかなければならないのであろう。

 

 

※この文書は政府系HPを参考(引用文含む)に作成したものである

靖国神社について

靖國神社は明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりです。
明治12年(1879)に「靖國神社」と改称されて今日に至っております。