殉国七士廟 三河國三ヶ根山上

殉国七氏廟入口門柱 揮毫 岸信介

殉国七氏廟入口門柱 揮毫 岸信介

殉国七士」と尊称されている人々は、国際法違反の非道なる東京裁判で日本を 背負って絞首刑となったA級戦犯の七人が祀られている。

死刑執行は昭和23(1948)年12月23日に行われた。この日は、当時皇太子殿下であった今上陛下の誕生日でもある。

殉国七士墓

殉国七士墓

 昭和54年2月26日、昭和天皇と皇后は愛知県豊田市の植樹祭に出席されたが、豊田市から遠く離れた三ヶ根山のグリーンホテル三ヶ根にわざわざ宿泊された。
御公務当日の朝の6時頃、、両陛下は殉国七士廟の方角へ向かって、不動のままに15分以上佇立黙禱しておられたという。
同年11月8日には美智子妃殿下と礼宮が同じようにされたそうである。
さらに今上天皇も12月23日の誕生日には殉国七士墓に毎年お使者らによる墓詣りを欠かさないそうだ。
 
東條英機 (元首相・陸軍大将)
広田弘毅 (元首相・文民)
土肥原賢二(元陸軍大将、特務機関) 
板垣征四郎(元陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎(元陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
松井石根 (元陸軍大将、中支那方面軍司令官)
武藤章  (元陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
殉国七士墓でお参りをする結城府幹事長

殉国七士墓でお参りをする結城府幹事長

 

昭和20年8月15日に終戦となった大東亜戦争の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの11ヶ国は極東国際軍事裁判を開き、事後法に依り審判し 票決によって右7名に対し絞首刑を決定し、昭和23年12月23日未明 前記A級戦犯7名の絞首刑が執行されたのである。 当時としては命がけで 火葬場から東條英機大将を始め A級戦犯7名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が云い渡された 昭和23年11月12日午後のことであった。 なぜならば 各担当弁護士が、遺体の家族引渡しの件でマッカーサー司令部を訪ねたが 了解を得る事ができなかったからである。 このまゝでは遺体も遺骨も家族には引渡されず 極秘のうちに処分される事が明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という 日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。 又日本の将来の平和追求のためにも 日本国の犠牲者として 罪障一切を一身に引受けて処刑される7名の遺骨は 残さなければならない。 そこで遺骨だけでも家族に何とか渡したいとの一念により 大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当っては綿密な計画を要した。 それには先ず刑の執行日を速やかに探知しなければと 極東裁判米国検事某氏よりやっとの事で7名の刑の執行日は クリスマスの前日12月23日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察する事ができた。 横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通し、久保山火葬場長 飛田美善氏の協力を得ることにも成功した。 しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り7名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の眼を盗んで奪取し、一応計画は成功したかに思われたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に 日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思い、感づいた米国人によりこの遺骨は 再び米軍に取り戻されてしまった。 しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので 米軍も面倒と思ったのか、奪取した7名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の 残骨捨場に遺棄して帰ったのである。 この時米軍が持ち去った7名の遺骨は 全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるが、どの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。 そこで、翌24日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になる事を知った 三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒ぶ夜半 黒装束に身を固め、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。 周囲は暗くても、灯火と物音は禁物である。 骨捨て場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入口もないので 思案の結果 火かき棒の先に空缶を結び付け苦心して 遺骨をすくい取ることに成功し、普通の骨壺1個にほゞ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。 見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は 想像以上の大仕事であった。 遺棄された真新しい真白な遺骨は まぎれもなくこの世に唯一の7名の遺骨であり、これを奪取することに成功したことは、三文字弁護士にとっては一生を通じ 命を賭した熱く長き一日のできごとであった。 こうして取得した遺骨は一時人目を避けて 伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後 遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地 三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
 以来毎年4月29日の天皇誕生日の良き日に 例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客も花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる 慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々ご参拝に参る様になり、世界平和を祈願する多くの人々により 三ヶ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。

弁護士 三文字正平 書 昭和59年10月31日 建立

殉国七士廟由来の石板

殉国七士廟由来の石板

殉國七士墓 碑文

米国の原子爆弾使用 ソ連の不可侵条約破棄 物資の不足などにより敗戦のやむなきに至った日本の行為を
米中英ソ濠加仏蘭印比十一ヶ国は極東国際軍事裁判を開き 事後法によりて審判し票決により昭和二十三年
十二月二十三日未明 土肥原賢二 松井石根 東條英機 武藤章    板垣征四郎 広田弘毅 木村兵太郎
七士の絞首刑を執行した
横浜市久保山火葬場より その遺骨を取得して熱海市伊豆山に安置していた三文字正平弁護士は幡豆町の好
意により これを三ヶ根山頂に埋葬し 遺族の同意と清瀬一郎 菅原裕 両弁護士等多数有志の賛同とを得て
墓石を建立した
遥かに遠く眼を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである

殉国七氏廟追悼碑 殉難七僚友を哭し獄中作を録す 大島浩陸軍中将

殉国七氏廟追悼碑 殉難七僚友を哭し獄中作を録す 大島浩陸軍中将

追悼碑 碑文

妖雲獄を鎖して朔風腥し 
昨夜 三更 七星殞つ 
暴戻の復讐太古に還る
冤を雪ぎ何れの日か 
忠霊を靖んぜん

殉難七僚友を哭し獄中作を録す
陸軍中将 駐独大使 大島 浩

殉国七氏廟参道入り口案内石柱

殉国七氏廟参道入り口案内石柱

殉国七氏廟 参道の碑

殉国七氏廟 参道の碑

殉国七氏廟 参道の碑

殉国七氏廟 参道の碑

殉国七士廟 萬世太平の賦

殉国七士廟 萬世太平の賦

殉国七士廟 萬世泰平の賦

殉国七士廟 萬世泰平の賦

殉国七氏廟 伊藤ご夫妻と共に

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山代表の伊藤さんご夫妻と共に

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山 カレーが美味しい峠の茶屋です

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山 カレーが美味しい峠の茶屋です

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山 在りし日の東條由布子さんの絵がをが懐かしく感じます

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山でも演奏する島田同人 国士の雄

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山でも演奏する島田同人 国士の雄叫び?

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山 伊藤代表の奥様と

殉国七氏廟 ゆーとぴあ三ヶ根山 伊藤代表の奥様と

愛知三ヶ根山からの景色

愛知三ヶ根山からの景色

愛知三ヶ根山からの景色

愛知三ヶ根山からの景色 眼下には駿河湾の波の綾が広がる

殉国七士廟 案内の石碑

殉国七士廟 案内の石碑

殉国七士廟慰霊碑案内板 

殉国七士廟慰霊碑案内板

殉国七氏廟 留魂の碑 

殉国七氏廟 留魂の碑

殉国七氏廟 留魂の碑の前で結城副幹事長 

殉国七氏廟 留魂の碑の前で結城副幹事長

殉国七士廟 留魂の碑 浸しくさせていただいた東條由布子さんのお名前が懐かしい

殉国七士廟 留魂の碑 親しくさせていただいた東條由布子さんのお名前が懐かしい

殉国七士廟 豊橋歩兵第十八連隊第二中隊 盡忠報國の碑

殉国七士廟 豊橋歩兵第十八連隊第二中隊 盡忠報國の碑

殉国七士廟 戦車第三師団工兵隊慰霊碑

殉国七士廟 戦車第三師団工兵隊慰霊碑

殉国七士廟追悼碑 第三師団通信隊 あゝ幾山河

殉国七士廟追悼碑 第三師団通信隊 あゝ幾山河

殉国七士廟 飛行第七十五戦隊各霊菩提

殉国七士廟 飛行第七十五戦隊各霊菩提

殉国七氏廟 飛行大五十戦隊慰霊碑

殉国七氏廟 飛行大五十戦隊慰霊碑

殉国七氏廟 南方航空通信連帯慰霊碑

殉国七氏廟 南方航空通信連帯慰霊碑

殉国七氏廟 南支派遣軍沖三七五〇部隊慰霊碑

殉国七氏廟 南支派遣軍沖三七五〇部隊慰霊碑

殉国七氏廟 第二十七野戦貨物廠 慰霊

殉国七氏廟 第二十七野戦貨物廠 慰霊

殉国七氏廟 飛行第六十七戦隊慰霊碑

殉国七氏廟 飛行第六十七戦隊慰霊碑

殉国七氏廟 第二十四師団通信隊 鎮魂

殉国七氏廟 第二十四師団通信隊 鎮魂

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七氏廟 騎砲兵第四連隊慰霊碑

殉国七士廟 独立自動車第二四八中隊慰霊碑

殉国七士廟 独立自動車第二四八中隊慰霊碑

殉国七士廟 独立自動車第二四八中隊慰霊碑の前で結城副幹事長

殉国七士廟 独立自動車第二四八中隊慰霊碑の前で結城副幹事長

殉国七士廟 第六十五師団慰霊碑

殉国七士廟 第六十五師団慰霊碑

殉国七士廟 戦車第三師団工兵隊慰霊碑

殉国七士廟 戦車第三師団工兵隊慰霊碑

殉国七士廟 元満州第八〇五部隊慰霊碑

殉国七士廟 元満州第八〇五部隊慰霊碑

殉国七士廟 お町さんの碑

殉国七士廟 お町さんの碑

お町碑 碑文紹介 

お町さんは佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、後、旧満州国安東市
に渡って湯池子温泉の女中頭となりこの地に終戦を迎えた。

昭和二十年八月十五日、敗戦国民と化した在満日本人は家を奪われ財を失い、悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。奥地より陸続伝え来る無惨な同朋の悲報。然し此処にして誰に何ができるだろうか。若し出来得るとするならば機智縦横度胸あり、身を捨てて同朋の愛に死んでくれる、

そんな女人でなければならない。国境、北辺より避難南下の人々を抱えて
ふくれ上がった安東幾千万の日本人の命運を背負っての責は、余りにも重く、酬いられる保証は全くない。

この時お町さんは人々に請われて「挺身娘子隊」を編成しその総監となり
ソ連軍駐し来るや慰安慰撫に奮闘司令官の信頼を一身にして日本人の被護活動に挺身した。奉天陸軍病院五龍背分院の重度傷病兵、三上勝弘中将以下一〇八名が八路軍の分院接取により退去を余儀なくされ「止まるも死進むも死、ならば一歩でも日本に近付いて死ぬべし」と道を求めて彷徨終に得られず半死半生安東へ辿りついた彼等を迎え「お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は滅多に餓死させるものではありません。お町は唐人お吉ではございません。お町には国府も八路もございません。日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろうことは覚悟の上でございます。」

お町さんの活躍は満州電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録「望郷」の随処にかかれているが、彼女が心身困ばく、絶望のどん底にあった三上中尉以下に生きる気力と体力故国帰還の夢と希望を与えた事には全くふれられていない。

あれから三十余年、いよいよかなしくあはれにお言葉が忘れられず、ソ連軍撤退して八路軍により鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんへの、死をかけた平和への祈りと冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。

殉国七士廟 幡豆町宣言碑

殉国七士廟 幡豆町宣言碑

殉国七士廟 北京西郊会の碑 

殉国七士廟 北京西郊会の碑

殉国七士廟 太平会記念植樹の碑

殉国七士廟 太平会記念植樹の碑

ゆうとぴあ三ヶ根代表の伊藤弘さんは、東條由布子さんと共に愛国運動をされてきた方である。わが師西山にも三度ほどあったと聞き懐かしい四方山話をさせていただいた次第である。温厚なまなざしの中にかって武人であった面影を感じながら、只々殉国の烈士方をお守りしていただいている感謝の念のみがわいてきたが、言葉にすることは憚らせていただいた。