古都鎌倉【南朝所縁の地】を訪ねて

古都鎌倉南朝所縁の地を訪ねて

大塔宮護良親王【鎌倉宮】

鎌倉宮 護良親王乗馬御木像

鎌倉宮 護良親王乗馬御木像

大塔宮おおとうのみや護良もりよし親王は皇統第九十六代後醍醐ごだいご天皇の皇子として延慶えんきょう元年(千三百八年)に誕生され、十一歳にして比叡山延暦寺えんりゃくじに入り、二十歳より同寺天台座主ざすを務められ法名を尊雲法親王そんうんほっしんのうと号され比叡山の大塔に在されたことから、世に大塔宮だいとううのみや(間違いではなく俗には言う)と称されたと言う。

不臣著ふしんいちじるしい執権家北条氏を倒す為、鎌倉幕府倒幕(正中しょうちゅうの変・元弘げんこうの乱)の計画を立て挙兵した後醍醐天皇であったが、事敗れ捕らえられ隠岐島へ配流はいるされた。

討幕の芽はまれたかに見えたものの、大塔宮は幕府軍の追及を逃れ紀伊山地をめぐり、十津川熊野の集徒を従え、各地に令旨りょうじ発し反幕府勢力をまとめる事に尽力じんりょくを尽くされた。

後醍醐天皇が京都還御かんぎょし天皇親政の建武けんむの新政」が始まり征夷大将軍・兵部卿ひょうぶきょうに任じられたが、倒幕戦争の最後の最後に寝返り同じく征夷大将軍の座を求めていた足利尊氏との対立を深め、尊氏を襲撃しようとしたが失敗。

尊氏の力を恐れる父、後醍醐天皇の命によって謀反の罪で捕らえられ、足利方によって鎌倉二階堂の医王山東光寺に幽閉ゆうへいされた。土牢に幽閉されている間、天皇に書状を送ったが、天皇の怒りを恐れた者のために、書状は天皇のもと届けられることは無かった。

鎌倉宮 赤い笠木を渡した白塗の一の鳥居

鎌倉宮 赤い笠木を渡した白塗の一の鳥居

一の鳥居に掲げられていた明治天皇御下賜扁額 明治天皇17歳の折の御宸筆

一の鳥居に掲げられていた明治天皇御下賜扁額 明治天皇17歳の折の御宸筆

鎌倉宮 明治天皇の勅願により唯一建立された神社として旧・官幣中社に列し、鎌倉では鶴岡八幡宮(旧・国幣中社)を上回る高い格式を誇る

明治天皇の勅願により唯一建立された神社として旧・官幣中社に列し、鶴岡八幡宮(旧・国幣中社)を上回る高い格式を誇る

鎌倉宮 鎌倉宮碑 「建武中興十五社」の一社でもある

鎌倉宮 鎌倉宮碑 「建武中興十五社」の一社でもある

鎌倉宮 教育勅語碑

鎌倉宮 教育勅語碑

鎌倉宮拝殿

鎌倉宮拝殿 護良親王が幽閉され最後を遂げた寺院として歴史に名を残した関東十刹にも数えられた東光寺があった。

鎌倉宮宝物殿 (旧・明治天皇陛下行在所)

鎌倉宮宝物殿 (旧・明治天皇陛下行在所)

鎌倉宮宝物殿 右上の額所は山岡鉄舟 左端は伊藤博文

鎌倉宮宝物殿 右上の額所は山岡鉄舟 左端は伊藤博文 左二番は勝海舟の書                          

御構廟(おんかまえびょう) 淵辺義博が護良親王の御首を置いて逃げたとされる場所

御構廟(おんかまえびょう) 淵辺義博が護良親王の御首を置いて逃げたとされる場所 9ヵ月の幽閉で衰弱していたにもかかわらず、相手の刀を噛み砕くほどの抵抗を見せ、首を取られてなお、睨みつける護良親王の形相に恐れをなした淵辺義博は、その場に首級を打ち捨てて逃げ出したと伝承されている。

鎌倉宮本殿裏の御土牢前の石段

鎌倉宮本殿裏の御土牢前の石段

鎌倉宮 御土牢前の扉には金色の菊紋

鎌倉宮 御土牢前の扉には金色の菊紋

鎌倉宮本殿裏の御土牢説明版

鎌倉宮本殿裏の御土牢説明版

鎌倉宮本殿裏の御土牢

鎌倉宮本殿裏の御土牢

護良親王を殺害する淵辺義博(歌川国芳画)

護良親王を弑逆する淵辺義博(歌川国芳画)

 

 北条高時(得宗家当主・第14代執権)の次男勝寿丸(相模次郎時行ときつら)が鎌倉幕府再興のため挙兵(中先代の乱)し、足利義詮よしあきらが治める鎌倉に攻め入った。足利氏の主力部隊は、後醍醐天皇の新政府が、足利氏が鎌倉を拠点に「新幕府」を起こすことを警戒していたため、尊氏とともに京都に留め置かれていた為、万全の防御態勢をとれなかった。

足利軍は侵攻を食い止められず、鎌倉を放棄し三河国に敗走する時、あろう事か護良親王を足利直義は相模国高座郡大野村渕辺原の地頭・淵辺ふちのべ義博に弑逆させてしまったのである。

更に不遜極まりない事ではあるが、竹藪に御首みしるしを捨て去ったのだ。

その捨てられた御首は、理智光寺の住僧によって葬られたと伝えられている。

 

享年数え御年28歳。                          

その後東光寺は廃寺になったが明治6年(1873)、明治天皇により跡地に鎌倉宮が建てられた。

大塔宮護良親王墓所

大塔宮護良親王墓所石標

大塔宮護良親王墓所石標

尊皇の武将や親王の中で、正成公よりも顕家卿よりも、和歌の名手としても知られた宗良親王よりも、小生は大塔宮おおとうのみや護良親王が好きだ。

才溢れ純粋過ぎた故、権謀術数けんぼうじゅっすう渦巻く世では無力すぎた。その若き人生を悲劇で幕を閉じられた親王殿下に合掌。

大塔宮護良親王墓所 階段を二百段近く登った頂上に在る

大塔宮護良親王墓所 階段を二百段近く登った頂上に在る

大塔宮護良親王墓所石標

大塔宮護良親王墓所石標

理智光寺跡石碑  明治初期まで阿弥陀堂が残っていたらしい

理智光寺跡石碑  明治初期まで阿弥陀堂が残っていたらしい

苔の寺で有名な日蓮が鎌倉で最初に草庵を結んだと伝わる古刹の妙法寺にも大塔宮護良親王の御墓がある。

白旗神社と源頼朝公墓所

白旗神社 明治の神仏分離前までは、この場所には薬師堂があった

白旗神社 明治の神仏分離前までは、この場所には薬師堂があった

建久3年(1192年)念願の「征夷大将軍」に任ぜられた。白旗神社は、正治2年(1200年)、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として北条政子が創建したのだと伝えられている。

白旗神社の御堂 祭神は、源頼朝と源実朝

白旗神社の御堂 祭神は、源頼朝と源実朝

法華堂跡石碑 【国指定史跡】

法華堂跡石碑 【国指定史跡】

法華堂は文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州藤原氏征伐の祈願所として、伊豆山権現の專光房良遷に命じて建立した本尊を聖観音像とする持仏堂であったが、頼朝公の死後は「法華堂」と呼ばれ墓所となった。

頼朝公が埋葬された場所は、幕府を開いて最初に政務をおこなった大倉御所(大蔵御所)の北隅にあたる。

頼朝が亡き後、北条時政は、有力御家人の梶原景時・阿野全成・比企能員・畠山重忠を滅ぼし、二代将軍頼家を伊豆修禅寺に幽閉して暗殺した。二代執権義時が、和田義盛を滅ぼし、三代将軍実朝も暗殺された。執権北条氏にとって残るは将軍派の幕府重鎮であった

三浦泰村のみとなっていた。宝治元年(1247年)に起こった宝治合戦により三浦一族は法華堂で滅亡した。三浦一族の墓所は、法華堂東方の山腹にある。                                        

法華堂跡 階段を上ると頼朝公墓所がる

法華堂跡 頼朝公の没年齢と同じ数の53段の上に墓所がる

源頼朝墓所 法華堂跡 建久3年(1192年)念願の征夷大将軍に任ぜられている

源頼朝墓所 若くして亡くなった同母弟の希義公の墓所の土と石を兄弟の悲哀を想い交換してある

源頼朝公墓所 法華堂跡 笹竜胆の家紋は鎌倉市の市章にもなっている

源頼朝公墓所 笹竜胆の家紋は鎌倉市の市章にもなっている 石塔の手前の供物台に丸に十字の家紋

源頼朝公墓所 墓塔は江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が建てた

源頼朝公墓所の墓塔は江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が建てたという

源頼朝墓所 希義公の土と石の解説板

源頼朝墓所 希義公の土と石の解説板

源頼朝公顕彰碑 源頼朝会を主催した. 大森金五郎作の歌碑

源頼朝公顕彰碑 源頼朝会を主催した国史学者の大森金五郎作の歌碑

君出でて 民もしづまり 九重の 塵もおさまる 世とはなりけり

源頼朝公墓所                                    

源頼朝公墓所  案内板

源頼朝公墓所  案内板

大倉幕府西門の石碑

大倉幕府西門の石碑

源氏山と切通

八幡太郎源義家公 菊池容斎画

八幡太郎源義家公 菊池容斎画

源氏山は、八幡太郎源義家みなもとのよしいえ公が奥州へ出陣に際して、源氏山の山上に白幡を立てて、氏神の岩清水八幡宮に戦勝を祈願し、出征した。その故事から、旗立山又は御旗山とも呼ばれている。

義家公は前九年の役で父 頼義を助け、奥州の安倍頼時あべのよりとき貞任さだとう父子を破り、後三年の役では、清原氏を討って奥州を平定した英雄である。

義家公五世玄孫の頼朝公も此れに習って、平家追討の時、山頂で、源氏の戦勝を祈願したと言われる。旗立山又は御旗山・白旗山とも呼ばれている。

源氏山 頼朝公像

源氏山 源頼朝公像

源氏山 標高は92.6メートル

源氏山 標高は92.6メートル

源氏山公園 ハイキングに最適なベンチもある

源氏山公園 ハイキングに最適なベンチもある

鎌倉市内なのに緑豊かな自然に囲まれている

鎌倉市内なのに緑豊かな自然に囲まれている

武家政権を成立させた源頼朝は、南方を海とし残りの三方を山で囲まれた陸の孤島で防御に適していた源氏所縁の鎌倉の地に幕府を成立させた。

平安京の朱雀大路にならいメインストリートとして若宮大路を整備し、放射状の軍事用道路である鎌倉街道等を次々と整備し、武家政権の基礎固めに邁進した。

切通し 

頼朝公の没後、執権北条氏により交通利便性を向上させる為に切通しを整備した。それにより防衛面が弱体化する為、様々な防御的な工夫が施された。

敵の侵入を防ぐために人工的に作られた崖の「切岸きりきし」、路面に埋められた大きな岩「置石」、両岩壁を迫り出させて道幅を狭くし侵攻を止める「大風洞ほうとう」「小風洞」を作りその崖上には「平場ひらば」という攻撃場を整備し防衛力を完備した。 

そして防御に固い鎌倉で物資運搬にために山や岩を切り開いて造った道が「切通し」である。「亀ヶ谷坂切通し」「化粧坂切通けわいざかきりどおし」「巨福呂坂こぶくろざか切通し」「大仏切通切通し」「極楽寺ごくらくじ切通し」「朝夷奈あさひな切通」「名越切通し」は鎌倉七口と呼ばれ防衛・物流の要路として存在した。

仮粧坂切通

仮粧坂切通 人ひとりが通れるほどのわざと狭くされている急坂道

仮粧坂切通 人ひとりが通れるほどのわざと狭くされている急坂道

吾妻鏡には「気和飛坂けわいざか」と書いてあるが、書物により化粧・気生・気和飛など表記呼称が異なる。

仮粧坂切通 平家の首をここで化粧して首実験したという由来がある

仮粧坂切通 平家の首をここで化粧して首実験したという由来があ

仮粧坂切通 坂下あたりに娼家があり化粧した女性たちがいたという由来もある

仮粧坂切通 坂下あたりに娼家があり化粧した女性たちがいたという由来もある

元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の綸旨 りんじを賜った新田義貞公が上野国生階いくしな生品)明神で挙兵し、足利尊氏嫡男の千寿王せんじゅおう義詮よしあきら)共に鎌倉攻略戦を展開した。鎌倉幕府軍の化粧坂は守将は金沢時盛であった。一昼夜で65回も戦闘を行った激戦であったと伝わっているが、新田軍は攻略できず稲村ケ崎の海岸沿いからの攻略に策を変え、干潮を利用し磯伝いに一気に鎌倉に突入。執権北条高時は自害し鎌倉幕府滅亡した。

葛原岡神社

葛原岡神社 石鳥居

葛原岡神社 石鳥居

葛原岡神社 石鳥居

葛原岡神社 石鳥居

日野俊基としもと卿は幼い頃から学問の道に優れ、後醍醐ごだいご天皇の蔵人頭くろうどのとうに抜擢され、鎌倉幕府により佐渡で処刑された同族の日野資朝すけとも卿とともに討幕運動の急先鋒だった。 そして、畿内に勢力を持っていた楠木正成公をを説得して味方に付けたのが俊基卿であったと言われている。

後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐計画が露顕した元弘の変にて、日野俊基卿は元弘二年七月に逮捕され鎌倉に送られ張輿はりこしに乗せられて仮粧坂を越え葛原岡くずはらおかで刑場の露と消えた。

俊基卿辞世

 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん

明治20年(1887)に俊基を祀る葛原岡神社が創建された。 

 

御由緒

葛原岡神社は後醍醐皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社です。

俊基卿は幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な人物であったので、後醍醐天皇より見出されて、優秀な側近として活躍されました。
当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ、計画を練られました。
俊基卿も、後醍醐天皇の最も信頼の厚い側近のひとりとして計画に加わり、重要な役割を果たしておりました。
ところが、正中元(1324)年、幕府打倒の計画は事前に幕府に察知され、俊基卿は捕らわれの身となって鎌倉へと送られてしまいました。
しかし、俊基卿の身を心配された後醍醐天皇が鎌倉へ万里小路宣房までのこうじのぶふさ卿を派遣、とりなしに努めたので、翌年には京都へと戻ることが出来ました。
その後も、後醍醐天皇は屈せず鎌倉倒幕の計画を進められ、俊基卿も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしておりましたが、元弘元(1331)年、またも計画が幕府に知られ、俊基卿は天皇をかばうため、再び捕らわれの身となりました。鎌倉へ送られた俊基卿は計画の中心人物として、翌元弘二(1332)年六月三日、幕府の手によって葛原岡にて悲劇のご最期を迎えられました。
その間、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の元弘三(1333)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。
俊基卿自身は、その目で「建武の中興」を見ることなく、悲劇のご最期を迎えられましたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。
以来、鎌倉由比ヶ浜の総鎮守として、また「建武の中興」への道を開かれたことから「開運の神様」、また文章博士として優れた能力発揮されたことから「学問の神様」として、今日でも広く全国各地より篤く崇敬されております。 (葛原岡神社HPより)

葦津珍彦先生月命日墓参り

鎌倉を訪れた日は、葦津珍彦あしずうずひこおきなの月命日であった。同志と共に鎌倉市足助共同墓地にある葦津家墓所に墓参りと清掃で訪ねた。

「佐助」の地名は、頼朝が幼少の頃は右兵衛権佐うひょうえごんのすけ(兵衛府の次官)であったの佐殿すけ」と呼ばれていた由来するという説もある。

鎌倉の隠れ里と言われる地と言われる佐助。翁の墓の近くには白狐が祀られている佐助稲荷神社があり、今度は訪ねてみようと思う。

墓参りに行く途中の花屋で榊を所望したところ売り切れで季節の花を買い求めたが、やはり神道墓にはさかきが似合う。

住宅を抜け山すそを登り墓に辿り着くと雑草に覆われていた。雑草と言われる夏草にも命はある。可哀そうだが無縁仏の様な景色には出来ないので皆抜いたが、そんな慈悲の思いに至るのやはり歳のお陰なのだろうか?

葦津翁安らかにお眠りください 合掌。

葦津珍彦翁墓所

葦津珍彦翁墓所