皇紀二千六百七十九年如月 殉国七士廟参拝報告

皇紀二千六百七十九年如月 殉国七士廟参拝報告

東條英機(元首相・陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
広田弘毅(元首相)
板垣征四郎(元陸軍大将)
木村兵太郎(元陸軍大将)
松井石根(元陸軍大将)
武藤章(元陸軍中将)

七氏は昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米・英・中・ソの連合国代表が立ち会い、陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。

殉国七氏廟門柱

殉国七氏廟門柱  揮毫 岸信介

平成最後の紀元節奉祝式典には弊会から今年も三か所の会場に参加させていただいた。

中部地区の式典には行動隊を中心に8名が愛知の白山宮に赴いた。

式典に向かう前、行動隊の諸君は初めての三ヶ根山スカイラインの三ヶ根山上にある殉国七士廟に詣でた次第である。

「大東亜戦争敗戦により占領軍の裁判の名を騙った報復の私刑であった東京裁判」により国のために犠牲となられた七氏の墓所である。

殉国七士の墓

殉国七士廟 殉国七士の墓

殉国七士の墓

殉国七士廟 殉国七士の墓

殉国七士廟由来

殉国七士廟由来

 昭和二十年八月十五日終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの十一カ国は極東国際軍事裁判を開き、事後法に依り審判と評決によって右七名に対し絞首刑を決定し、昭和二十三年十二月二十三日未明前記A級戦犯七名の絞首刑が執行されたのである。当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯七名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が言い渡された昭和二十三年十一月十二日午後のことであった。なぜならば各担当弁護士が遺体の家族引渡しの件でマックアーサー司令部を訪ねたが了解を得る事ができなかったからである。このままでは遺体も遺骨も家族には引渡されず極秘のうちに処分される事明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。又日本の将来の平和探求のためにも日本国の犠牲者として罪障一切を一身に引受けて処刑される七名の遺骨は残さなければならない。そこで遺骨だけでも家族に何とか渡したい一念により大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当たっては綿密な計画を要した・・・・

〈略〉

・・・・・こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ケ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和三十五年八月十六日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。

 以来毎年四月二十九日の天皇誕生日の良き日に例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客が花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々御参拝に参るようになり、世界平和を祈願する多くの人々により三ケ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。

             弁護士 三文字正平 書
        昭和五十九年 十月三十一日 建立(殉国七士廟HPより)

殉国七士廟 参拝する久保田本部長

殉国七士廟 参拝する久保田本部長

殉国七士廟 萬世太平の賦

殉国七士廟 萬世太平の賦

殉国七士廟追悼碑 殉難七僚友を哭し獄中作を録す 大島浩陸軍中将

殉国七士廟追悼碑 殉難七僚友を哭し獄中作を録す 大島浩陸軍中将

妖雲獄を鎖して朔風腥し 昨夜 三更 七星殞つ 

暴戻の復讐太古に還る 

冤を雪ぎ何れの日か 忠霊を靖んぜん  

殉難七僚友を哭し獄中作を録す            

 終身刑で巣鴨プリズンに入獄していた、大島浩陸軍中将・駐独大使が獄中で詠んだ歌

ユートピア三ヶ根前の碑

ユートピア三ヶ根前の留魂の碑

ユートピア三ヶ根

ユートピア三ヶ根

ユートピア三ヶ根

ユートピア三ヶ根前留魂の碑記念撮影

ユートピア三ヶ根前留魂の碑記念撮影

 

 

靖国神社について

靖國神社は明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりです。
明治12年(1879)に「靖國神社」と改称されて今日に至っております。