歴史を感じる小さな旅 東京編

9月3日に勢洲憂国の士兄と同志と共に東京駅から皇居周辺や東大和市にある旧日立航空機立川工場変電所を巡りましたので、ご紹介させて頂きたいと思います

東京駅舎

東京駅舎

 

 東京駅丸の内駅舎は、1914年(大正3年)に創建され、その堂々たる姿で多くの人々に愛されてきました。しかし、1945年(昭和20年)5月25日アメリカ軍による、東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしたそうです。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われたのでした。終戦となりその直後から早くも焼け跡の中で修復体制を整えて計画立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行ったそうです。資材も機材もない困難な状況下の中で、日本の玄関である東京駅の修復は、復興絵のシンボルでもあったのでしょう。しかし、3つのドーム部分の外壁は修復できましたが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、などといった内容だったそうです。
その後、長らく先延ばしされてきた建て替え計画は、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、創建当初の形態に復原する方針がまとめられ、復原工事は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成したのでした。

皇居前広場から二重橋を望む

皇居前広場から二重橋を望む

東京駅は都内に住んでいながら、この由緒ある駅舎を見に行く機会は無かったので、この度、東京駅の歴史を知る事ができ、良い経験となりました。

そして、行幸通りから皇居周辺に入り、正門石橋、二重橋、坂下門、桔便門を見学した後、楠木正成像へと向かいました。

楠木正成公は、皆さんんも当然ご存じでしょうが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。父は楠木正遠とされています。息子に正行(小楠公)、正時、正儀がいます。
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に大きく貢献し、建武の新政が成ったのは、偏に正成公の突出した活躍があったからこそと言えるでしょう。しかし、公家優遇の公平とはとても言い難かった土地の分配策に全国の武士が、足利尊氏を担ぎ建武の新政を否定し、武家政治を復活させようとしました。
建武の新政を継続しようとする、新田義貞公、北畠顕家公とともに南朝側の軍の一翼を担いましたが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害しました。正成公こそが天皇に殉じた真の武将出あると、改めて思いました。
江戸時代末期の頃、後醍醐天皇に殉じた正成公の精神は「天皇に忠誠を尽くして命をも顧みずに戦った忠君愛国の手本」として高く評価されるようになりました。
明治元年、大楠公創祀の沙汰が兵庫県に伝達され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されました。

この銅像の大きさを調べると本体4メートル、地上からは8メートルもの大きさでした。とても迫力がありました。

米軍大和基地の碑

米軍大和基地の碑

 旧日立航空機変電所がある東大和市の東大和南公園へ行く為に、玉川上水駅で下車すると、米軍大和基地の碑がありました。
この地は有刺鉄柵で囲まれ、門は軽武装したアメリカ兵に守られていました。米国空軍の基地で、宿舎が建てられ、後にハイスクールにもなっていました。
それ以前は、軍需工場があり、陸軍の飛行機のエンジンを作っていたそうです。
そのため、昭和20年(1945)、米軍の爆撃を受けて、工場は壊滅し、一面が焼け野原となりました。
 その跡につくられたのが米軍の基地でした。基地は昭和31年(1956)2月24日に開設されました。基地の広さは、図の通り、現在の玉川上水駅周辺から都立東大和南公園、警視庁総合教養訓練施設に及びました。

基地建設の経過は次の通りです。
・昭和20年(1945)、爆撃を受けた日立航空機(株)の工場跡地は多くの部分が西武鉄道(株)の所有地となりました。
・工場に併設された青年学校の校舎(現在の丸山台団地、ヤオコーの場所)を当時の大和町は唯一の中学校校舎として使用していました。
・昭和27年(1952)、突然、国から米軍兵舎建設の通知が届きました。
・教育環境、地域の環境をまもろうと、町を挙げての反対運動が広げられました。
・昭和28年(1953)、用地は強制収容されました。
・昭和28年(1953)7月10日、大和村長内野禄太郎、衆議院外務委員会で、中学校の移転、飲料水対策などについて要望。
・昭和28年(1953)9月1日、兵舎建設工事の入札。 
・昭和29年(1954)、兵舎工事完成。 
・昭和30年(1955)、極東空軍大和基地として開設準備。 
・昭和31年(1956)2月24日、正式開設 FA03012立川飛行場大和宿舎地区、立川空軍基地D地区との位置づけでした。
・昭和31年(1956)、中学校は現 第一中学校の地に移転し,基地として使用中も返還運動は続けられました。
・昭和44年(1969)、立川基地の飛行が停止され、3年後の返還の実現性が出てきました。
・昭和48年(1973)、在日米軍基地の整理統合が行われ、立川基地、大和基地も返還されました。

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 

東大和南公園に到着すると、すぐに旧日立航空機立川工場変電所が見えました。
壁面に残る空爆と銃撃の跡があばたのように見える古びた建物が、戦災を証言する歴史を刻んだ史跡であります。写真で見るよりも無数の弾痕が生々しく残っていて、当時を想像してみると、その凄まじさが伝わってきました。

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

旧日立航空機株式会社立川工場変電所

旧日立航空機株式会社立川工場変電所案内板

旧日立航空機株式会社立川工場変電所案内板

 

 

 

 

 

 

 

武蔵野には、我が国初の飛行場「所沢飛行場」が、明治43(1910)年に開設されました。
それに付随し、航空機関連の企業が多く作られたのです。
日立航空機株式会社変電所は、航空機のエンジンを生産する軍需工場へ送電する変電施設として1938年(昭和13年)に東京瓦斯電気工業株式会社変電所として建造されたのです。翌年には日立製作所と合併、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>の変電所に改称されます。戦局の激化に伴い1945年(昭和20年)2月17日、F6Fヘルキャット戦闘機、4月19日、P-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射、4月24日にはB-29 100機の編隊による空襲により被災。隣接する工場は大破しましたが奇跡的に変電所は、大きな被害は免れたのでした。戦後は、東京瓦斯電気工業を合併した富士自動車(後の小松ゼノア)立川工場の変電所として機銃掃射を受けたクレーター状の弾痕を残しつつ、内部の変電施設の更新を実施しながら1993年(平成5年)まで変電所として使用され続けたもです。

旧日立航空機株式会社立川工場変電所慰霊碑

旧日立航空機株式会社立川工場変電所 慰霊碑

この戦禍により死傷、負傷された先人の方々に尊崇を捧げます。

この度多くの事を勉強した中で、現地に足を運び、現物を見る事は大変価値のある事だと実感致しました。
今後も色んな場所に行こうと思いますが、多くの知識を吸収していきたいと思っております。

北信の志士

若い子たちと歴史巡りをするのは、若い子たちにも非常に興味を持って貰えるし、また私にとってもとても良い勉強になりますので、今後も機会があればどんどん観光及び勉強を兼ねてやっていきたいと思います。 

勢州憂国の士

 


1 thought on “歴史を感じる小さな旅 東京編

  • やはり旧跡や神社を巡り、歴史に触れることは、民族のアイデンティティーを確認するために大事なことですね。

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