正論社第二回勉強会 偕行社会議室

靖国神社波留の例大祭の看板

靖国神社波留の例大祭の看板

靖国神社波留の例大祭の看板

靖国神社波留の例大祭の看板

靖国神社花見の客で大盛況

靖国神社花見の客で大盛況

偕行社は、明治10年(皇紀二千五百三十七年)陸軍将校の会合の場所として東京の九段上に創立され、陸軍将校の修養研鑽と団結を主な目的とした。
このような場所で第二回勉強会をやることに意義があると思っております。

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社の表札

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社の表札

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社案内板

2018.03.25 正論社第二回勉強会の会場 偕行社案内板

日本人として一番大事なことは皇室敬戴である。

民族運動に挺身する我々は、愛国者であり維新者である。

真の民族派愛国者として覚醒せねばならない。
そして、国体護持・尊皇絶対の維新者である戦闘者としての矜持を持ち、日々生きねばならない。

戦闘者の精神とは日本古来から続く武士道にある。武士の魂を継ぐ我ら民族派維新者は、常在戦場の戦闘者でなければならない。

古くは万葉の時代に誕生した武士階級が、源平時代を経て戦国の戦いの中で「やむにやまれぬ思い」からうまれた精神なのである。

武士は神明を敬い、祭祀の礼をつくし、天地神明に恥じざる義により生死の決断したのであった。

正に世界に類を見ない我が国固有の戦闘者の精神である。

(しかし、武士道にも2つの武士道がある)

武士道は、仏教の僧堂から生まれたものでもなく、儒学の学院で創案されたものでもない。正に世界に類を見ない我が国固有の戦闘者の精神であるが、太平期(鎌倉時代や江戸時代)には武士道は封建道徳となっていったのである。時の為政者(将軍・執権・大名)は治世をするために忠君を説き主君に対するだけの忠義の道であるとした。しかしそれは「小義」であり、皇室天皇に対する忠義こそ「大義」なのである。

戦国乱世の荒ぶる魂の中で生まれ武士道は、天皇と家門の祖霊を崇敬したのである。

忠君を説く武士道 例)鉢の木と北条時頼・佐野源左衛門

ある大雪の夜、上野国佐野荘のあばら家に一人の旅僧が宿をもとめてきました。

 家にいた婦人は、主人が留守だったため断りますが、帰ってきた主人がその話を聞くと、旅僧を追いかけ呼び戻しました。

 主人は、いろりの薪がなくなると秘蔵の鉢植の梅・松・桜を囲炉裏にくべてもてなしたそうです。

 旅僧が主人の素性をたずねると、もとは佐野荘の領主だった佐野源左衛門尉常世と名乗ります。

 そして、「一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれているが、「いざ鎌倉!」というときには、一番に鎌倉に馳せ参じ忠勤を励む所存である」と語ります。

 翌朝、旅僧は主人に礼を述べて家を辞します。



 それからしばらくして、鎌倉からの動員令が諸国の武士に下されました。

 常世もその噂を耳にし、破れた具足をつけ、錆びた長刀を持ち、やせ馬にまたがって「いざ鎌倉!」と馳せ参じました。

 みすぼらしい姿に集まった人々の嘲笑を買う中、幕府の役人から呼び出しを受けます。

 みっともない格好を叱責されるのかと思いながら、おそるおそる前に進み顔をあげると、そこにはあの大雪の夜の旅僧の顔がありました。



 その旅僧こそ前の五代執権「最明寺入道」北条時頼でした。

 時頼は一宿一飯の恩義を受けた礼を述べ、あの夜の話のとおりに馳せ参じたことをほめたたえ、佐野荘の安堵を約束しました。

 その上、常世が時頼のために薪として使った鉢の木にちなんで、上野国松井田荘、越中国桜井荘、加賀国梅田荘を常世に与えたといいます。

天皇に対する忠義に生きた武士道 例)大楠公御殉節

 湊川での激しい戦いは、朝から夕方まで続き、流石の楠木軍も、わずか七十余騎にまでとなりました。

最早これまでと大楠公以下は、湊川の北方まで落ちのび、弟正李卿と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」(七生報国)と互いに誓いあい、兄妹刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした。

例)豊臣の将・木村重成の潔く美しい死生観

天下の知将・真田幸村、武勇無双の豪傑・後藤又兵衛基次、高知の大名であった長宗我部盛親と共に弱冠二十余歳で「豊臣四天王」と呼ばれた勇将である。

大坂夏の陣で大阪城落城の前に 食がだんだん細くなっていく重成を心配した妻に「 首が切られた時 食事が出ては見苦しいので」と 死の覚悟を説いたと言う。 妻は別室に下がり見事自決し、重成はそれを見届け香を焚き最後の決戦に挑んだのである。

徳川家康のもとに重成の首級が届けられた際に、頭髪に香が焚きこめてあることに家康も重成の覚悟を希代の若武者であると称したといわれている。

この所作こそ、戦闘者の精神を受け継ぐ我々民族派の維新者は見習い覚悟せねばならない。

死を畏れぬ者は、生もまた畏れぬ。

江戸期に入り泰平の世となり武士道は統治のツールとして儒教の影響を強めていき封建道徳に組み込まれてしまい形骸化され一旦眠りについた。

しかし、武士道の精神は違う形で武士階級でない町民層にまで大きく影響を与えたのであった。「花は桜木、人は武士」という。庶民は武士に敬意を払った。武士が支配する時代、武士道は武士の間だけでなく、庶民の生き方に大きな影響を与えたのであった。

歌舞伎や人形浄瑠璃・大衆演劇・講談そして読本(現代の小説)等で繰り返し登場する曽我兄弟や忠臣蔵等を通じて「武士的な心性」が深く染み込んでいったのである。

そして幕末動乱の時代に荒ぶる魂の武士道が再び復活した。

明治維新の原動力は、官賊別れた愛国の志士共に「荒ぶる魂の武士道」戦闘者精神の復活により維新の大業をなし得たのであろう。

 武士の美意識を根底にもつ武士道は、明治に入り武士階級が消滅した後も、日本人の倫理となって生きていったのである。

そして、維新の志士から頭山満翁筆頭とする愛国者に引き継がれたのである

2018.03.25 正論社第二回勉強会参加の同志諸氏

2018.03.25 正論社第二回勉強会参加の同志諸氏

【会 場】偕行社会議室
【時 間】3月25日(日曜日)
     開場 午後二時
     開始 午後二時半 国民儀礼
             講義
        午後三時半 質疑応答・意見交換 
     
     終了 午後四時半開始


公益財団法人偕行社

東京都千代田区九段南4-3-7

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靖国神社について

靖國神社は明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりです。
明治12年(1879)に「靖國神社」と改称されて今日に至っております。