国事に殉じた来島恒喜烈士の墓参

百二十九年前の本日、日本国の自主独立のために散った来島恒喜という真の国士がいた。
故三浦重周氏の重遠社から復刻された岡保三郎著「来島恒喜」によると「彼が慷慨義を好み、忠勇君に尽すの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨てゝ国に殉ずるの気象、蓋し高場塾の感化に負ふ所少なからざるものあるを認めざる可からず」と評されている。

頭山満によって建て替えられた来島 恒喜烈士の墓

頭山満翁によって建て替えられた来島 恒喜烈士の墓

勝海舟が最初に建てた来島 恒喜の墓石

勝海舟が最初に建てた来島 恒喜の墓石

 安政6(1859)年12月30日、筑前福岡藩士・来島又右衛門の二男として生を受ける。

頭山満を筆頭に玄洋社の主要なメンバーを育てた男装の女傑・高場乱の興志塾に入門し志士の精神を培った。

興亜の先駆者・副島種臣や山岡鉄舟に薫陶を受け人格を磨き、中江兆民に仏語を学んだ後、頭山満率いる玄洋社に参加する。

明治21年(1888年)大隈重信外務大臣が条約改正交渉を進めたが、改正案で「外国人被告事件で大審院に外国人裁判官を任用する」ことを定めていた事に、玄洋社をはじめ国権党等の愛国団体や大同倶楽部・大同協和会・貴族院の保守中正派といった保守政党に加え新聞「日本」「東京新報」雑誌「日本人(日本及日本人の前身)」が猛烈な反対行動に出た。

来島は大隈を暗殺するべく、明治22年10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。

来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。

享年二十九であった。

そして来島の一撃により条約改正は中止になった。

テロルの被害者であった大隈が「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。

明治という時代は軍人や右翼だけでなく、政治家も偉かったとつくづく思う。
 

奥羽列藩同盟尊皇の末裔

来島 恒喜墓参 まずはお墓の清掃

来島 恒喜墓参 まずはお墓の清掃

来島 恒喜墓参 久保田本部長

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

来島 恒喜墓参

藤田同志が復帰謹慎解除後、初の行事参加です