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第四項 日清戦争(1894~95年)

日清戦争は新興の国民国家VS前近代的な老軍事国家の戦争であった

 大清帝国中国は西夷の討伐戦であったはずのアヘン戦争では英国に大敗を喫したが、東夷の小日本にまさか完敗するとは思っていなかった。

 日本は幸いにして明治維新という近代化改革に成功したが、誇り高き中華帝国は「禽獣の衣服をまとい、禽獣(きんじゅう)の声を真似する」と徹底的に日本を蔑み西洋を拒否したのであった。

 中華文化の卓越した優越性への自負が強烈な中国にとって、自国以外は蛮族でしなく、西洋に圧倒された時代であっても西洋は蛮族でなければならず、天は一つの中華中心主義の思いは捨てられなかったのである。

 華夷思想からすれば、低劣なる西洋の夷狄(いてき)にすり寄る東夷の日本は許されざる存在であったのだ。

 中国からすれば日清戦争は、東夷の日本に対する懲罰戦争であったのである。

 それに対して日本は近代化により国民という民族の連帯に目覚め戦争に臨めたのである。

 現実に日清戦争を当時の知識人たちは、義戦と見ていた。

 福沢諭吉は、日清戦争は文明の戦争なり、文明の義戦と唱えた。

 清・朝鮮と断交も辞さずと激しい決意を表明している。

 「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するが風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かるべからず。

 我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(福澤諭吉著作集 慶應義塾大学出版会)と檄文を発している。

 そしてキリスト教思想家で文学者の内村鑑三までも「我々は信じる、日清戦争は我々にとっては実に義戦であると」(国民之友)と日本の正義を信じていた。

 天皇を中心とし官民一体となり戦時体制を確立できた国家と、軍閥が跋扈し異民族による征服王朝の支配体制に陰りが見えた腐敗国家の戦いであったのだ。

 日本の自立独立のためには、中華圏(東アジア)の安定が不可欠である事は明白な事実である。

 ロシア帝国の南下政策に対抗しようにも、協力者とならなければならないはずの、中国大陸も朝鮮半島も混乱の極みに達していた。

欧米の中国侵略・列強による中国分割

近代国民国家VS誇り高き老大国

 国力そして軍事力の大きな差さえも意味をなさず勝敗が決した理由は、日本が近代国民国家戦争として戦略と戦術があった事であろう。

 大清帝国も中国大陸古来からの兵站は現地調達でし、

 略奪は当たり前というよりは士気が高いと評価される国風であった。

 近代以降では、民衆を敵にした軍隊は勝利する事は出来ない。

 それを考えれば勝敗は現代常識からすれば分かりきってしまうのである。

日清戦争

 それでは中華帝国とはどの様なものなのか、その実態を考えてみよう。

 中華帝国は有史以来、一つの天下であり自己完結の世界であった。

 天朝朝貢と華夷秩序によって2000年の長きにわたり、中国大陸とその主変地域の秩序は保たれていたのだ。

 開祖以来の祖法を易姓革命で守り、隋唐時代の冊封体制から明清時代の朝貢制度(朝貢貿易)は滅亡まで続いた。

※易姓革命 徳を失った王朝に天が見切りをつけたとき、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)という考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の継続こそが易姓革命の根拠としている。

 十七世紀中期から後期にかけては中華大陸の覇者である明朝が衰退し、中華大陸は大混乱となり飢饉と流賊により、民は共食う阿鼻叫喚の地獄という状況であった。

 そこに満州から興った女真族が大清帝国という征服王朝の世界帝国を建国したのである。

 しかし19世紀に入ると大清帝国の支配も衰えだしていた。

 大清帝国においての民衆は全て家奴と呼ばれる奴隷であったのだ。

 当時の帝国最大の実力者李鴻章でさえ、身分は家奴であったのだから愛国心など持ちようがない。

 ましてや奴隷的身分であると思っている民衆に武器を持たせるなどありえない事であった。

 大清帝国に於いては国民という概念がなかったのである。

 そして軍事力は各地の軍閥が割拠していた状況を考えれば、中国韓国の学者達が日清戦争で中国が負けたのは中国が全力を出さなかったからだと主張するが、出せるもなにも、そんな状態ではなかったのだから負け惜しみもいいところである。

 実際、アヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争・日清戦争と次々に負け、国家は疲弊の極みに達してしまったのである。

 そして日清戦争の敗北によって日本と締結した下関条約より生じた多額の賠償金支払いのため、列強に対して外債を発行し、その見返りに鉄道敷設権や鉱山採掘権を奪われていった。

 1898年にはドイツが膠州湾、イギリスは威海衛、ロシアは旅順・大連、フランスには広州湾の租借地を奪われ中国は事実上の半植民地状態に陥ったのである。

 しかし時代の流れにはあらがえず体面を捨て洋務運動をおこなったが、ハードは西洋を取り入れ、ソフトは中国という不完全な改革により失敗する。

 しかし時は遅く不完全であった。

 ソフトは中国という不完全な近代化改革の富国強兵策を行い、科挙制度までを廃止し、その後明治維新の模倣のような戊戎維新を起し、時の流れに沿った近代化である立憲君主制を目指したが、時はすでに遅く、辛亥革命により、2000年以上続いた一君万民制の世界帝国であった中華王朝は滅んだのであった。

日清戦争

実は古来から中華は日本を認めていた?

 日清戦争後、日本ブームが起こった。

 中国各地の軍閥や実力者たちは競って日本に留学生を送ったのである。

 世界留学史上でも稀に見る留学の大ブームであり、20世紀初頭には少なくとも約2~3万人の中国人学生が日本へ留学したとされている。

 中国大陸と小中華を自認する朝鮮は、価値観及び思想的の大変換を余儀なくされ、それまで辺境の小さな島国と蔑んでいた日本に対し、屈辱の中で羨望と驚嘆の複雑な感情を持つに至った事が現在までも複雑な対日関係の遠因の一つである。

1899年 100人
1902年 500人
1903年 1,000人
1904年

3,000人

1905年 10,000人

(王殿卿編中国版:中国政治文化比較より)

 華夷思想の国である中国に起こった日本ブームの謎を紐解けば、そのカギは古代にあった。

 3世紀末中国で初めて日本について書かれた魏志倭人伝にあった。

 正式名称は、「三国志」魏志東夷伝倭人条である。

 倭国を「夫人淫(イン)せず、妬忌(トキ)せず、盗窃(トウセツ)せず、諍訟(ソウショウ)少なし」中原以外の諸民族ははみな野蛮人であるとみなし蔑んでいた誇り高き漢民族が、辺境の島国日本だけを文明国と認めていたのだ。

欧米の中国侵略・中国分割02



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