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日本社会を動かす危険をはらんだ空気とは

 時として不思議に思える国内世論が成立されていく動向の謎の流れ、それを『空気』と呼べば良いのであろうか?

 『空気』を解明する為、「空気の研究」という山本七平氏の著書を頼りに研究してみたい。

 山本氏は、出版社経営者で思想家であり、イザヤベダンの名で「ユダヤ人と日本人」という名著を含め一貫して問題作を残している作家でもあった。

 さて日本における空気とは何であろうか?「まあまあ」とか、「場が読めない」とか、「KY」とかそんな言葉が現代における『空気』のキーワードであろう。

 

日本人は、論理的判断基準と空気的判断基準のダブルスタンダードの中で生きている。

 「空気」とは…非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。…〈中略〉…

 われわれは常に、論理的基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている。

 …ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。

 いわば議論における論者の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。

 

 (※神教[イスラム・キリスト]の世界では)「絶対」といえる対象は一神だけだから他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。…〈中略〉…

 一方われわれの世界は、一言で言えばアニミズムの世界である。

…〈中略〉…

 アニマでの意味は、空気に近い、従ってアニミズムとは、「空気」主義とといえる。この世界には原則的にいえば相対化はない。 …〈中略〉…われわれ社会は、常に、絶対的命題を持つ社会である。 「忠君愛国」から「正直者がバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その「空気」で支配されてきた。…〈中略〉…この絶対性にだれも疑いをもたず、そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。 そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。 そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。 だがそういう世界が現実に存在するのである。 否、それが日本以外の大部分の世界なのである。

山本七平著『空気の研究(文春文庫)』

 

日本を支配しているのは、いつの世も「空気」である。

 日本社会は同調圧力が高く、「空気が支配する」社会構造が連綿と存在し、現代に於いても「空気」の支配力は益々強大化している。

 盛り上がっている「空気」に対し水を差すという行為は、日本では古来より許されなかった。

 そして「空気の支配」に従うことは、ときに恐ろしい結果を生んでしまう事があるのだ。 具体的な善悪正邪が曖昧であり、世界に通用しない幼稚性と独善が我が国の常識でもあるのだ。

 

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の世界では、唯一神以外はすべて絶対的な価値のないものとして対立概念で把握し、相対化されない対象の存在は許されず罪悪なのである。

 メートル法の様な固定規範を基準にすれば、キリスト教の西洋やイスラム世界のハムラビ法典のような峻厳な固定倫理の常識が成立する。餓死寸前のパン盗人も飽食の余興のパン盗人も処罰は同一であり、非人間的規制の固定倫理で成り立っているのである。

 大陸系の諸民族は誤判断一つで滅亡の道を辿る、滅ぼしたり滅ぼされる事が当たり前の熾烈な弱肉強食世界であったため、「空気の支配」を受けにくい社会構造を形成してきた。

 それに対し日本及び日本人は、海に囲まれた孤島の中で二千年の永きに渡り独自の文化を育んできた単一民族であったため発想が情況倫理的である。

 他民族に犯されない地政学的土壌の中で、ある意味で神道に吸収され日本独自の進化を遂げた仏教的基盤に儒教的規範が結合し、自由と個という概念を徹底的に排除してきたのである。

 倫理とは、人が生きて行く中で望ましいと思われる思考、態度のことである。

 理論の否定は、相手に対する全人格の否定に繋がると思い区別がつかない。

 破綻すれば以前を総否定し懺悔をして、また新しい懺悔的「空気」を作っていく民族なのである。

 現実には「物質から何らかの心理的・宗教的影響をうけて」いるにも関わらず、それを「迷信」として頭ごなしに否定してしまえば、「空気の支配」から逃れられないと山本氏は指摘したのだ。

 「あの場の空気ではやむをえなかった」といえば責任は逃れられる国日本。

 江戸の名奉行大岡裁きも情況倫理の典型であり、現代で言うならば「空気が読めない」「KY」という表現が近いのであろうし、「まぁまぁ」とか「適当に」とか曖昧な判断や結論が通用し、盛り上がっている「空気」に対し、「水を差す」行為は許されない唯一の国が日本なのである。

 

日本には、日本独特の「法外の法」と呼べる倫理観がある。

 「法外の法」の基本になるものとは人間味や人間性という言葉が合うであろう。 この不文律に従って裁判も「法」と「法外の法」の両方が勘案され判決が下されるダブルスタンダードに何の矛盾も感じず、むしろ人間性の豊かさにこそ正義であり美徳を見出してしまうのである。 大岡裁きこそその代表例であろう。

 

 凶悪事件が起きるとマスメディアは加害者を100%の絶対悪としての「空気」を作り出す。

 各界のリーダーやスターが一夜にして、非国民・絶対悪になる。

 「盗人にも3分の理」は世界では常識でも、日本では通用せず袋叩きとなる。

 公人である政治家は別にしても、最近の事象の例を見れば分かりやすいだろう。 まぁ現代のベートウベンと称されたと佐村河内守の場合は偽装年数も含め悪質すぎて仕方がない気もするが、小保方晴子元研究員やタレントのベッキーのやった行為は許されないが、外に出て歩くことも叶わないほど、総国民から弾劾追及される様な極刑の犯罪を犯したのであろうか?否である。

 見事に「空気」が醸成され、誘導して行くのだ。

 

★ 空気とは非常に強固で絶対的な判断基準であり、異端として葬りさるほど力を持ったものである。

★ 空気とは、日本に於いて絶対的な力を持った虚構の異常性と拘束性を持ったものである。

 

戦艦大和海上特攻作戦にみる「狂気の空気」の支配例

 大東亜大戦中、日本は得体の知れない「狂気の空気」に支配され戦略的判断を放棄し、崩壊していった。

 キーワードは、「非国民」「鬼畜米英」「特攻」「根性論」…

 ここには客観的分析は無く、戦略的判断の議論もないまま重要事項が決定されてしまったのである。

 

 山本氏は「空気」の恐ろしさを見事に例えている。

 戦艦大和の特攻は航空戦術も海の事も艦船の戦力も十分知り尽くしたベテランのエリート集団である参謀と軍令部の決定であった。

 無知、不見識、情報不足による錯誤はあり得ない。

 制空権を敵に制されている海域に対して、航空防衛なくして艦隊の海洋戦術の運用はあり得ない。

 論理の詐術は通用しない。

 特攻作戦は、世界戦争史の中でも最も愚かな戦術であった。しかし、単なる狂気の馬鹿な司令官や参謀によるものではなかった。 あの当時の空気では、非戦や反戦や特攻を止めることなど到底無理だったのである。

 

 当時の軍令部次長であった小沢治三郎元中将が雑誌取材の中で、
「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(文藝春秋 2007年8月号 昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜) と発言している。出撃の正当性データ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」だけであった。

 「論理・データ」と「空気」が対決し、「狂気の空気」の勝利より、悲劇終焉を戦艦大和は迎えたのだ。

 

 空気そのものに理論的正統性を持たせる事は不可能であり意味もない。

 しかしその空気により滅し、消えていった多くの人々がいたことも事実である。

 「危険な空気」に支配されない、普通の国に日本はならなければならないのだ。

 

平成二十八年水無月 鈴木 誠厳

 

 

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