奉祝!紀元節 日本青年会議所のキャンペーン

2月11日の「建国記念の日」に向けて若手経営者らで作る日本青年会議所(日本JC)が面白いキャンペーンを企画している

公益社団法人日本青年会議所
公益社団法人日本青年会議所

それは「日本の誕生日にはおむすびを食べよう」というもの。

同会議所では、この日に北海道から九州までの全国13箇所の神社で、参拝客らに「誕生ケーキ」ならぬ「誕生おむすび」を配布する計画だ。

この企画を考えたいきさつは、日本の若者が他国の青年に比べて「建国記念の日」の認知度が低かったためであった。

他国では大半の青年が正確に答えられたのに、日本の青年は正確に答えられたのは2割程度だった。

これは戦後のGHQの「日本弱体化計画に伴い、日本の正統な歴史を抹殺する教育がなされたためである。

日本青年会議所の動きは微々たるものかもしれないが、それでも多くの人々がおむすびを食べる度に神武天皇の建国記念の日のことを思い出してもらえればありがたいことである。

                 
北面武士

日本の誇り樋口季一郎将軍

ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ人に日本通過のビザを発給した外交官・杉原千畝(ちうね)のことは有名であるが、同時代の軍人、樋口季一郎中将が迫害されたユダヤ人に対して同様ののことをしたということ知る人は少ない。

北部軍司令官時代の樋口孝一郎将軍
北部軍司令官時代の樋口孝一郎将軍

これは「オトポール事件」と言われている。

1938年にユダヤ人18人がソ連と満州の国境のオトポールに、迫害されたユダヤ人がシベリア鉄道でたどり着いて逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り彼らは足止めされていた。

彼らの窮状を見かねて当時ハルピンにいた樋口季一郎中将(当時少将)は即日、炊き出しを命じるとともに、衣料・燃料の配給、そして要救護者への加療、満州までの入国、上海租界への移動の手配をしたのである。

その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民の数は増え続けた。

一説には5千人から2万人に登ったと言われている。

樋口少将がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけと言われている。

ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方の貧しい集落に立ち寄り、偶然呼び止められたユダヤ人の老人が樋口が日本人だと知ると家に招き入れ、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人を救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げたという。

樋口少将はユダヤ人の窮状を見て、そのことが脳裏をよぎったという。

当時の軍人にもこのような偉い人物がいたことを我々は忘れてはならない。

                 
北面武士

※関連寄稿文
【嘘に固められた「上海ユダヤ難民資料」のユネスコ世界記憶遺産申請絶対阻止!】
http://ishin.biz/seironsya/%e5%98%98%e3%81%ab%e5%9b%ba%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%80%8c%e4%b8%8a%e6%b5%b7%e3%83%a6%e3%83%80%e3%83%a4%e9%9b%a3%e6%b0%91%e8%b3%87%e6%96%99%e3%80%8d

【恥知らず国家の次なる歴史の歪曲の野望絶対阻止!】
http://ishin.biz/seironsya/%e6%81%a5%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9a%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e3%81%ae%e6%ac%a1%e3%81%aa%e3%82%8b%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e3%81%ae%e6%ad%aa%e6%9b%b2%e3%81%ae%e9%87%8e%e6%9c%9b%e7%b5%b6%e5%af%be%e9%98%bb%e6%ad%a2

私と西郷隆盛先生

私の心の中に定着し続けた     「英雄」西郷南洲翁

Portrait of Saigo Takamori Edoardo Chiossone
Portrait of Saigo Takamori Edoardo Chiossone

私は小学生時代に東京の上野動物園によく親や姉から連れて行ってもらったことがあります。特に二人の姉のうち、六歳離れた次姉にはことのほか可愛がられました。そうした次姉からよく上野動物園に連れて行ってもらった記憶があります。

上野動物園に行く途中には、必ず西郷さんが犬を連れた銅像に出会うわけです。そうしたことで、私は小さい時から西郷さんには親しみを感じていました。

次第に、私にとって目指すべき理想的な人間像として西郷さんのイメージが定着していった気がします。

私は若い頃、特に大学生後半ごろから徐々に肥満体になりますが、今ではそれも理想像として西郷さんをイメージしていたからだと考えています。

もっとも直接的には、尊敬する三島由紀夫さんがボディービルをしていたことにあこがれ、大学生になって二年間は渋谷にあったボディービルのジムに通っていて、ムキムキの体型になったのですがあまり筋肉がつくと体が凝ることと、法学部の専門過程に入ったことで勉強を余儀なくされた結果、トレーニングをしなくなり、その反動で太ってしまったーというのが真相ですが。いずれにせよ、私の理想的人間像、そして「英雄」として西郷さんは私の心の中に定着し続けたのです。

したがって、延岡で西郷さんが西郷軍の解散を決意する最終的な場面で、西郷さんがニニギノミコトに邂逅したことを知った時、私も含めた三人の関係、そしてその因縁の浅からぬことを知ったのです。

                    

北面武士 

元の大船団に挑んだ果敢なる戦闘者精神が「神風」を呼んだ

第二回の元寇となった弘安の役は、各地の侍たちの積極的な襲撃が元軍の攻撃を遅らせ、「神風」の襲来に繋がった。つまり、元の大船団にひるまず攻めこんだ将兵たちの果敢なる健闘が、「神風」を呼び寄せたとも言えるのである。

長崎県松浦市 松浦水軍の大兜
長崎県松浦市 松浦水軍の大兜

今回は、長崎の松浦市にある松浦水軍の跡地を訪問した。

当初、元軍は博多湾の攻略を試みたが沿岸は石の防塁が積み上げられて攻略できない。反対に陸上からは雨あられと矢をいすくめられバタバタと蒙古兵は倒れていった。そこで沖合いに船を引いたのだ。

松浦の御家人、草野経永は手勢と共にひそかに二隻の小舟に乗って敵船に夜襲をかけた。船におどりこみ散々に切って回り帆に火を放った。夜襲の成功を見た武将たちは、我先に沖にこぎだした。各自に同じように夜襲をかけた。

翌日は、瀬戸内水軍の一党で伊予の御家人、河野通有の軍勢が石塁の前に陣を張り敵を待ち構えたが、攻めて来ないのでそれではと二隻の船に部下を乗せて白昼堂々と敵船団に向かっていった。接近すると、帆柱を切り倒して橋にして敵船団に乗り込んだ。

敵兵の真っ只中に切り込み、敵兵を散々切り倒した。

敵将を生け捕りにし船に火を放って悠々と引き上げたというから大したものだ。

このような日本兵の奮闘により数日間の戦闘の後、博多への上陸を諦めた元軍は鷹島方面に引き返した。

元軍の主力部隊とも合流し、みんなで七月二十九日を期して博多を攻める計画だった。

しかし、平戸から鷹島にかけての一帯は、津々浦々に松浦党の根城がある。

彼らは巨像にたかる蜂のように、執拗に襲いかかった。また博多湾に集結していた各国守護、御家人の兵船が大挙して鷹島に停泊中の船団を襲撃したため、兵員や船舶に損傷が増え、総攻撃の日程に数日間の狂いが生じたのである。

かくして七月三十日となり、夜半に「神風」が吹くのである。

松浦市の沿道には、松浦党を記念した大きな兜をかぶった武士のお面が立っている(写真)。そのお面は鷹島方面の海をにらんでいる。

まさに鎌倉武士の気概が伝わってくるような勇壮な仮面である。

                    

北面武士 

真の保守政治家に求める愛国精神を貫く姿勢

安倍首相が、平成24年の第二次内閣発足から丸五年を迎えた

第4次安倍内閣 内閣官房内閣広報室
第4次安倍内閣 内閣官房内閣広報室

 在職日数は第一次内閣時代を合わせて2193日となる。戦後の首相では、佐藤栄作、吉田茂両氏に次ぐ第三位である。

同氏は、来年9月末に任期満了を迎える自民党総裁選に出馬するのは確実と見られるが、そうなれば憲政史上最長の政権が視野に入るとか。

いずれにせよ、安倍首相は歴史的な大政治家の足跡を踏みしめている。

 私が、田中六助代議士の秘書をしていた当時、安倍氏はまだ一介の政治家に過ぎなかった。それでも、自民党の将来を嘱望された政治家とあって周囲の見る目も違っていたし、そうした政治家の持つ独特のオーラのようなものが漂っていた。

以来、本人の努力もあったのはもちろんだが、安倍氏が成長したのは同氏が日本の保守本流の政治家として身に付けるべき思想をしっかりと持ち、決して「ぶれなかった」ことにあると私は思っている。

具体的に言えば、中国や韓国がどのように反対しようと、敢然として靖国神社に参拝する姿勢を貫くことである。

このような愛国精神を貫くことが真の保守政治家には求められるのである。
                     

北面武士

 

第4次安倍内閣 閣僚等名簿
●麻生 太郎  内閣法第九条の第一順位指定大臣(副総理) 財務大臣 内閣府特命担当大臣 (金融)デフレ脱却担当
●野田 聖子  総務大臣 女性活躍担当 内閣府特命担当大臣 (男女共同参画マイナンバー制度)
●上川 陽子  法務大臣
●河野 太郎  外務大臣
●林 芳正   文部科学大臣 教育再生担当
●加藤 勝信  厚生労働大臣 働き方改革担当 拉致問題担当 内閣府特命担当大臣(拉致問題)
●齋藤 健   農林水産大臣
●世耕 弘成  経済産業大臣 産業競争力担当 ロシア経済分野協力担当 原子力経済被害担当 内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)
●石井 啓一  国土交通大臣 水循環政策担当
●中川 雅治  環境大臣 内閣府特命担当大臣(原子力防災)
●小野寺 五典 防衛大臣 
●菅 義偉   内閣官房長官 沖縄基地負担軽減担当
●吉野 正芳  復興大臣 福島原発事故再生総括担当
●小此木 八郎 国家公安委員会委員長 国土強靱化担当 内閣府特命担当大臣(防災)
●江﨑 鐵磨  内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策 消費者及び食品安全 海洋政策) 領土問題担当●松山 政司  一億総活躍担当 情報通信技術(IT)政策担当 内閣府特命担当大臣(少子化対策クールジャパン戦略 知的財産戦略 科学技術政策 宇宙政策)
●茂木 敏充  経済再生担当 人づくり革命担当 社会保障・税一体改革担当 内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
●梶山 弘志  内閣府特命担当大臣(地方創生 規制改革)まち・ひと・しごと創生担当 行政改革担当 国家公務員制度担当
●鈴木 俊一  東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当

 

法治国家ならぬ理解不能な情治国家・韓国

「法が支配するのではなく、情が支配する国家」の韓国で、<詐話師>の故吉田清治が韓国に建てた謝罪碑を無断で書き換えたとして、公用物損傷罪などで在宅起訴されていた元自衛官、奥茂治氏の初公判が同国大田地裁で開かれた。奥被告は犯意を否認したが、検察は懲役1年を求刑し即日結審した。

忠清南道天安市の国立墓地「望郷の丘」にある吉田清治謝罪碑
忠清南道天安市の国立墓地「望郷の丘」にある吉田清治謝罪碑

 奥氏は「謝罪碑の所有権は、撤去を依頼した吉田氏の長男にあり、公用物を毀損したとの認識はない」と主張した。

しかし、検察側は求刑理由の中で「国際的に認定された慰安婦問題を歪曲しようとし、韓日外交に新たな摩擦を生じさせる可能性がある」と反論した。

どちらが正論を吐いているのは、一目瞭然である。

「慰安婦問題を歪曲している」のは、日韓合意を守ろうとしない韓国側だからであり、「両国の外交に新たな摩擦を生じさせる可能性がある」のも、極めて法をねじ曲げた捜査をしている韓国側であるからだ。

さらに法廷では、韓国側に不都合な陳述は翻訳されなかった

奥氏は、「碑文が虚偽であることは日本では認識されている。韓国の公的施設が虚偽を利用していたことになりませんか」と問いかけたのであるが、意図的に翻訳されなかったのである。

 私は奥氏も存じ上げている。

源田実先生の慰霊祭などで何回かお会いしたことがあるが、極めて紳士的な愛国者である。

韓国側は奥氏をまだ国内に止めて置くつもりのようだが、さらなるご健闘を祈る次第である。
                     

北面武士

※大韓民国刑法
第141条 (公用書類等の無効、公用物の破壊) 公務所が使用する書類その他の品物又は電磁記録等の特殊媒体記録を損傷若しくは隠匿し、又はその他の方法により、その効用を害した者は、7年以下の懲役又は1千万ウォン以下の罰金に処する。

第142条 (公務上保管物の無効) 公務所から保管命令を受け、又は公務所の命令により他人が管理する自己の物件を損傷若しくは隠匿し、又はその他の方法により、その効用を害した者は、5年以下の懲役又は700万ウォン以下の罰金に処する。

故吉田清治の詐欺行為を原因とする虚構に基づく個人建立の謝罪碑(派生案件)が何故公用物になるのか?

平戸市市長が「国賊」朝日新聞の購読を廃止

国賊朝日新聞購読を廃止したユニークな市長が評判を呼んでいる

長崎県平戸市長黒田成彦氏 平戸市HPより
長崎県平戸市長黒田成彦氏 平戸市HPより

 この市長は、長崎県平戸市の黒田成彦氏(57)。

黒田市長は、先日27日から「平戸市長室では朝日新聞の購読をやめた」とツィッターで発信した。

それに対し、市役所に届いたメールは、89件のうち賛成が84件反対が5件だったとか。

 産経新聞でインタビュー記事を掲載しているが、読んでみるとこの市長は極めてまっとうなことを話している。

今回、朝日新聞の購読を止めたのは文芸評論家の小川栄太郎氏の「森友・加計事件徹底検証朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」がきっかけだったという。

朝日新聞は「もりかけ問題」を安倍政権を倒すために使っているのだが、黒田市長は「新聞が安倍政権を倒すなんてのは余計なことです。それは国民がすればいい。ただ新聞記事が、誤報や記事を捏造するというのはあり得ない」と主張している。

 極めてまっとうな議論である。

このような政治家が国政に限らず地方にも溢れるとこの国も万々歳なのだが。
                     

北面武士

神功皇后が仕掛けた神国日本を守る「結界」

弘安の役の時になぜ4400隻の大船団が平戸から唐津までの海域に集結したのか、その謎を解くために唐津から平戸島までを中島君と一緒に取材して歩いた

第十五代神功皇后 月岡芳年筆 日本史略図会
第十五代神功皇后 月岡芳年筆 日本史略図会

 実は私は、元寇の役とその千年前に「三韓征伐」を敢行した神功皇后との間には不思議な関連性があると思っている。

一つには、元寇の日本への襲来のルートと神功皇后が征伐した経路がほとんど似ていること

二つ目は、元寇の襲来した地点には、神功皇后が点々と護国の神である住吉大神をお祀りしていることである。

当然、その場所には「住吉神社」が建てられている。

生月島 住吉神社本殿
生月島 住吉神社本殿

元寇の実質的な勝負は元の大船団に乗った何万人もの軍体が、上陸して侵攻できるか否かにかかっていた。

しかし、第一回目の文永の役でも、第二回目の弘安の役でも戦闘があったのはわずかに一日だけで翌日には海上に戻り、その後図られかのように神風」に会って船団は壊滅的な打撃を受けている。

しかも、このタイミングがピッタリ。これを「天祐神助」と言わずして何と言うのか?

弘安の役では、私は東路軍と本隊の南宗軍の合流地点が、当初の壱岐から平戸島に変更になったことが、戦略を変えさせ敗戦に導いたと考えている。

それは出発直前に難破した日本船の乗組員から、平戸島の方が本土に近く上陸作戦も取りやすいとの情報を得たためである。

この作戦変更によって、4400隻もの大艦隊が平戸島から鷹島、それに唐津に至るまでの海域にビッシリと結集したことを重視した。この狭い海域に大艦隊が結集したことが、「神風」襲来時の被害を増大させたのである。それこそ大波に翻弄されて船同士が衝突して大破したものと思われる。

台風襲来後の海岸線には元軍のおびただしい水死体の山があったとか。人類の歴史上最大の水難事件と言われる所以である。
しかし、この海難事件を日本サイドから眺めた場合、私にはこれは神国日本を守る神々の誘導だったような気がする。

つまり、その千年前に神功皇后が仕掛けられた神国守護の「結界」に導かれたのではないかと。

鷹島に住吉神社があることは、前回の取材で確認した。

唐津には鏡山の麓に松浦の一の宮である立派な「鏡神社」がある。

すると、平戸島にも何か住吉神社があるはずだと考えた。

生月島住吉神社 捕鯨集団であった益富家が1797年に寄進した鳥居
生月島住吉神社 捕鯨集団であった益富家が1797年に寄進した鳥居

平戸の観光協会に「平戸の周辺に住吉神社はありませんか」と電話した。すると私が推測した通りに存在したのだ。

それは平戸市から10キロ以上離れた島の反対側にある「生月島(いきつき)」に存在した。

生月大橋
生月大橋

生月大橋を渡って車で20分くらいのところにひっそりと立っていた。社殿には説明書きは何もなかったが、立派な「住吉神社」であった。

まさに神功皇后が仕掛けた神国日本を守る「結界」の一つだったのである。
                     

北面武士

大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)

新天皇となる皇太子様が初めて執り行う新嘗祭の「大嘗祭」が、平成31年11月中ごろに行われる見通しとなった

大嘗祭の御儀
大嘗祭の御儀

 具体的な日取りは、政治日程との兼ね合いもあり2案に絞られている。これに先立ち政府は、天皇陛下のご譲位を平成31年4月30日に定める政令を決定した。

 「大嘗祭」は、新天皇が一世に一度だけ行う皇位継承関連儀式の中でも最も重要な儀式である。

宮中祭祀の秘技とも言うべき行事で、これによって地上の天皇に天界の天皇霊が降りてきて合体すると言われている。つまり肉体の天皇が御身そのままに「現人神(あらひとがみ)」になられるわけだ。

それでこそ「神国日本」の実体が担保されるのだと私は考えている。

私は前にも指摘したが、天界では天皇は「現人神」であり、一般の神様よりも地位は高い。

それというのも、「現人神」たる天皇は、神界と地上界との結合点となられるお方だからだ。

 再来年の「大嘗祭」は、このような神霊的にも重要な儀式なのであります。
                     

北面武士

三島由紀夫の自決と私

三島由紀夫氏は、私たち民族派学生のいわば「教祖的な存在」であった

1970.市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫烈士
1970.市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫烈士

週刊現代が今週号で、三島事件が発生した当時の周囲にいた人間三人による鼎談を企画している。

三島事件が発生した当時に民族派の学生運動に関係していた私たちは、多かれ少なかれこの事件に関係している。

今回、その当時の私の記憶を記しておこう。

私が日比谷高校から一浪を経て東大に合格したのは、昭和41年春だった。当時はまだ学園紛争は一部の大学でしか起きておらず、全体的には静かなものだった。だが学費値上げに伴う学園紛争は、すでに有名大学では早稲田大学で起きていた。

当時東大教養学部に在籍していた私は、高校時代の友人が早稲田大学商学部の二年生で学園紛争に巻き込まれていたこともあり、私は面白いものだからしょっちゅう早稲田大学に通っていた。

そうした中で同大学のいくつかの民族派のサークルの人たちと仲良くなった。その一人が、その後一水会を作る鈴木邦男氏であり、また三島氏と自決する森田必勝氏であった。

三島由紀夫氏は、当時「反革命宣言」や「文化防衛論」など民族的な論文を雑誌などに発表しており、私たち民族派学生のいわば「教祖的な存在」でした。

私は、二年生の時に東大教養学部内に「国策研究会」を作り、民族派の狼煙を上げたのです。

その後、東大内でも学園紛争が拡大し、国策研究会は「日本文化研究会」なるよりニュートラルな名称に変わり、より広範囲な学生を結集することになります。

三島氏は、その後「盾の会」を作りますが、東大から参加した人間はいなかったと思います。

参加したのは、早稲田大学の民族派の学生、ならびに「全国学協」の一部学生が中心でした。

三島事件が発生した時、私は法学部の四年生でしたが、大きな衝撃を受け、とるものもとりあえず市ヶ谷の自衛隊総監部に行き、自決した二人の冥福を祈りに行きました。確かテレビの取材も受けたように思います。

事件からすでに47年経つが、当時の記憶はまだ鮮明に残っており、私たち残された者の使命はますます大きくなっている。

                      

北面武士