神風の襲来で元の大軍が壊滅した鷹島

弘安の役の御厨海上合戦 蒙古襲来絵詞
弘安の役の御厨海上合戦 蒙古襲来絵詞

元寇は、ヨーロッパにまで至る一大帝国を築いた元の皇帝フビライ・ハーンが、南宋を攻略するために日本を遠征しようとして遠征軍を差し向けた文永の役(1274年)と、南宋を滅ぼした後に本格的に日本攻略を目指した弘安の役(1281年)の二回の遠征があります。

対岸から見た鷹島。鷹島肥前大橋
対岸から見た鷹島。鷹島肥前大橋

 今回、私はその弘安の役の実際を知るために神風の襲来で元の大軍が壊滅した鷹島に中島君と共に取材に訪れました。
鷹島は、伊万里市の沖に位置します。現在は鷹島大橋が出来ているので、比較的簡単に渡れますが、そこに至るまでが長い山道を通らねばならず難渋しました。
唐津市から入り、曲がりくねった山道を3時間ぐらい走ったでしょうか、分からずに途中で何度も道端の店やコンビニに寄って道を訪ねました。

でも対岸から見た鷹島の眺めは壮観でした。

現在は鷹島肥前大橋が出来て楽に渡れます。
島の高さはさほどなく、なだらかな丘陵が連なっています。島の南側は、伊万里湾と松浦市に囲まれて内海のようになっており、ちょうど瀬戸内海のように、普段は波はほとんどありません。

 元軍は二つに別れて日本に襲来しました。
朝鮮の合浦を出発した東路軍4万は、900隻の船団で対馬、壱岐を攻撃した後、鷹島に集結します。

南宋の兵を主体とした江南軍10万は、3500隻の大船団を編成して日本に押し寄せたのです。

これら二つの元軍に対し、日本側も敵を果敢に攻めました。特に軍船による夜襲は、元軍に多大な損害を与えます。そうした中で、7月30日から来襲した台風は、さしもの元の大軍を海の藻屑と化してしまったのです。

 日頃は波がほとんどない内海が、これほどの大被害をもたらすとは誰が予想しえたでしょう。

 私は、これこそ「神風」に他ならないと現地を訪れてみてしみじみ感じました。

元軍の鎧
元軍の鎧
元軍の鎧
元軍の鎧
元軍の備品
元軍の備品

 

 

 

 

 

 

 

元軍の備品
元軍の備品

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鷹島の南側には、沈没した元の船から今でもさまざまな武器や資料が発見されています。島には埋蔵文化センターがあり、引き揚げられた元軍の遺品が陳列されています。

 

北面武士

 

※松浦市立鷹島埋蔵文化財センター

鷹島埋蔵文化財センター 日本観光振興協会
鷹島埋蔵文化財センター 日本観光振興協会

 

【 所在地 】長崎県松浦市鷹島町神崎免146番地
【 電 話 】0955-48-2098
【開館時間】 午前9時~午後5時
【休 館 日】 毎週月曜日

佐賀の古湯温泉

 台風が通過した今月17日午後、佐賀の古湯温泉に中島君と行って来ましたが、同志の皆さんもこちらに来たら是非寄ってみてください

佐賀の古湯温泉 温泉や旅館が連なる温泉通り
佐賀の古湯温泉 温泉や旅館が連なる温泉通り

冷泉とまでは言いませんけど、ぬるめの温泉でともかくゆっくり温泉に浸かりたい方には、これほど良い温泉はありません。おすすめします。
 今回の台風は、とにかく雨と風が長く続き、通りすぎた時点で中島君と「古湯温泉に行こう」と即決したほどでした(笑)。
 古湯温泉は、江戸時代の慶応3年に湧出しています。もともと公衆温泉となっていたものを昭和43年に古湯温泉センターとして開設、平成25年にリニューアルして「英龍温泉」となっています。大川市から10キロほど離れていますが、車で一時間ほどで行けます。
ともかくゆったりした良い温泉です。客は服を脱いだ後、それぞれ大浴場に頭を並べて一時間近く寝てぬるめのお湯に浸かっています。私もいつも一時間は浸かっていますが、こうすると体の疲れがすっかり癒されるのです。翌日は、すっきり。しかも入場料金は大人350円と安いのも魅力です。まさに田舎の隠れたオアシスと言えるでしょう。

 

北面武士

※古湯温泉

郷嘉瀬川と貝野川の合流部付近に温泉街が広がる。13軒の旅館と共同浴場1軒が存在し、アルカリ性単純泉で「美人の湯」と呼ばれている。
開湯伝説によれば、2200年前に秦の始皇帝の命令で、日本に不老不死の霊薬を求めて探しに来た徐福が、七代孝霊天皇の御代72年に発見したとされている。
その後地震によって埋没したが、約200年前に再発見され、温泉場として発展した。
佐賀の奥座敷の湯治場として、歌人の斎藤茂吉・画家の青木繁・中国の詩人の郭沫若らの文人墨客も多く訪れた。
斎藤茂吉は「ほとほとにぬるき温泉を浴むるまも 君が情けを忘れておもえや」などの38首の句を残しその歌は句碑に刻まれている。
【住所】佐賀県佐賀市富士町大字古湯

佐賀の古湯温泉
佐賀の古湯温泉
佐賀の古湯温泉
佐賀の古湯温泉
佐賀の古湯温泉
公衆温泉の英龍温泉

長門国一宮 住吉神社

下関に寄った時に、長門国一宮である住吉神社に参拝した

Sumiyoshi jinja Haiden
Sumiyoshi jinja Haiden

全国に住吉神社は数多くあるが、住吉大神の「荒魂(あらみたま)」と特定して祀っている神社はここだけである。それだけに神様の霊顕もあらたかなことと思う。この神社は、仲哀天皇のお妃であった神功皇后が、三韓征伐をされた折りに出現された住吉大神が、「わが和魂(にぎみたま)は、玉身の寿命を守り、荒魂は軍船を導かん」とのご教示があり、住吉大神を守り神として進軍し、その神助によって交戦することなく勝利したものです。
 この神恩に感謝して、皇后はこの地に神社を建て、荒魂をお祀りになったのです。それ以来、当神社は長門国一宮として崇拝されています。

北面武士

長門国一宮 住吉神社拝殿
長門国一宮 住吉神社拝殿

※住吉神社
長門国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
大阪の住吉 大社・博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられる。
本殿は応安3年(1370)周防・長門・石見の守護大名であった大内弘世に造進したもので、室町初期の社寺建築として特異な様式をもち、国宝に指定されている。
本殿は第一から第五の5殿が連なり、各神が祀られている。
第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
第二殿:応神天皇(第15代天皇)
第三殿:武内宿禰命(5代の天皇に仕えたと言われている伝説上の忠臣)
第四殿:神功皇后(仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)
第五殿:建御名方命(大国主神の御子神)

【場 所】山口県下関市一の宮住吉1丁目11-1
【電 話】083-256-2656



馬関(下関)戦争古戦場跡を訪ねた

『馬關戰争圖』藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
『馬關戰争圖』藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵

仕事の都合もありまして下関に行って来ました。ここは幕末に長州藩と米英仏蘭の列強4ヶ国との間で下関戦争のあった場所です

下関 壇ノ浦砲台跡
下関 壇ノ浦砲台跡

 1864年、朝廷の攘夷の要請に応じて長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃したことがきっかけでした。戦争は、4ヶ国の軍艦との間の砲撃戦などで、長州軍は大敗。改めて列強の戦力の強大さを知ることになるのです。
 その後、薩英戦争を戦った薩摩藩と長州藩とが薩長連合を組み明治維新へとつながって行きます。
関門海峡を挟んで九州側にめかり神社があり、ちょうどその反対側に、岸壁の上に「みもすそ川公園」があります。そこに、当時戦いで使った五台の砲台が今も残っています。高さ3メートル、長さ5メートルほどです。武力の進んだ外国の軍艦相手に、長州藩が果敢な戦いを挑んだことは評価すべきでしょう。

北面武士

連合国によって占拠された長府の前田砲台
連合国によって占拠された長府の前田砲台

※馬関戦争
文久3年(1863年)、長州藩は攘夷実行する。馬関海峡(現 関門海峡)を通過する米仏蘭の艦船に対して無通告で砲撃を実施した。約半月後、米仏の軍艦が報復として長州軍艦を砲撃し長州海軍に壊滅的打撃を与えた。
しかし長州は砲台を修復し、対岸の小倉藩領の海岸部を占領し新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
同4年、英・米・仏・オランダの四国連合艦隊が下関海峡から長州藩を攻撃し、陸戦隊が上陸して藩兵と戦い、海峡沿岸の砲台を全滅させた事件。



元寇と日蓮上人そして亀山上皇

福岡県庁前には、蒙古来襲時に活躍した二人の偉人の大きな銅像が海の方をにらんで立っている。一人は外敵の来襲を予言した日蓮上人で、もう一人は国難をわがこととして、神仏に「敵国降伏」を祈願し続けた亀山上皇である

東公園 亀山上皇立像
東公園 亀山上皇立像

この日は台風接近で、天候は決して良くなかったものの、当時の切迫感を味わうにはちょうど良かった。日蓮上人は、時の執権、北条時頼に「立正安国論」を上程した。日蓮は、当時のさまざまな天変地異を法華経に背いた結果と断じた。

日蓮上人像 福岡市経済観光文化局HP
日蓮上人像 福岡市経済観光文化局HP

 県庁前に立つ銅像は高さ10メートル。八角形の台座に「立正安国」と書かれている。それに隣接して国柱会を創設した田中智学先生筆記の日蓮上人の三大誓願碑が立っている。これは、我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならんーである。この三大誓願を立てたのは、立教開宗の時とされ、さまざまな苦難に会いながら敢然と布教し続けた日蓮の高い志と不屈の決意のほどが偲ばれる。
 隣り合わせの東公園には、丘の上に高さ6メートルの亀山上皇の銅像が立っている。衣冠束帯姿で立つ上皇は、「我が身を持って国難に代わらん」と、伊勢神宮などに祈願した。この二人の銅像は、元寇の最前線にあって敢然と戦った日本民族を象徴する人物でもある。

北面武士

東公園 日蓮上人立像
東公園 日蓮上人立像
手前建つ日蓮上人の三大誓願碑
手前建つ日蓮上人の三大誓願碑
我、日本の柱とならん
我、日本の眼目とならん
我、日本の大船とならん

※日蓮上人立像
明治25(1892)年4月起工式が行われ、明治37(1904)年に完成、同年11月8日除幕式が行われた。
  製作を引き受けたのは岡倉天心(1862~1913)、その図案懸賞には明治27年に同校を卒業する下村観山(1873~1930)のデザインが一等賞を受け(その図案が採用されたか否かは不明)、原型(木型)製作を木彫科初代教授竹内久一(1854~1921)、鋳造を同校鋳金科教授岡崎雪声(1854~1921)が行った。
像高は10.6mで、奈良の大仏(14.87m)、鎌倉の大仏(11.44m)に次ぐ、国内第三位の巨大青銅像である。
【場 所】 福岡市博多区東公園7番11号 

亀山上皇立像 福岡市経済観光文化局HP
亀山上皇立像 福岡市経済観光文化局HP

※亀山上皇立像
元寇を斥けるべく祈願した亀山上皇を記念して作られたもので、鋳造に20年近くを要し明治37年(1904)に完成した。
木彫原型を作ったのは福岡県出身の彫刻家山崎朝雲、鋳造は佐賀市の谷口鉄工所である。 像高4.84m。
【場 所】 福岡市博多区東公園107-3 



建武中興の功臣、新田義貞公を偲ぶ

建武中興の功臣、新田義貞公を偲ぶ

新田義貞公像 分倍河原
新田義貞公像 分倍河原

所用で上京し、昨日は少し時間があったので、私の好きな武将の銅像に会いに分倍河原駅まで行って来ましたその武将とは、建武中興の功臣、新田義貞公である。新田義貞は、群馬県の新田庄の出身。足利氏とならび武家を統率する力のある家系であった。鎌倉幕府からの高い税金の要求に腹をたてている時に後醍醐天皇の子、護良親王から倒幕の呼び掛けがあったことで天皇方につくことになる。そして集まった20万の大軍を率いて戦ったのが、2日間におよぶ「分倍河原の合戦」だったのです。これに勝利し、鎌倉まで攻めこみ140年にわたる鎌倉幕府を滅ぼすのです。
その時の意気軒昂な義貞公の姿を模したのがこの銅像です。
この銅像は、京王線分倍河原駅の改札口を出て、ロータリーに向かう橋を渡ると見えて来ます。皆さんも近くに寄る機会があったら、是非とも新田義貞公に会いに行ってください。
 

北面武士

新田義貞公像 分倍河原
新田義貞公像 分倍河原

※南北朝時代南朝の忠臣、新田義貞公は今年で六百八十回忌を迎えた。菩提寺は、鎌倉時代に一遍上人が開いた称念寺(時宗の福井県坂井市)である。
義貞公は鎌倉時代、上野国新田荘(群馬県)の足利氏と並び立つ源氏の名家の嫡男として生まれた。
鎌倉幕府倒幕戦の折、分倍河原で繰り広げられた激戦で鎌倉方の北条泰家を破ったこと。分倍河原の戦いは鎌倉幕府が滅亡のきっかけとなった戦いである。

南朝の忠臣菊池一族を祀る菊池神社

菊池神社拝殿
菊池神社拝殿

菊池神社に行ってきました。勤皇に尽くし続けた菊池一族ゆかりのこの神社は、元城の本丸があった場所に建てられている。菊池市が眼下一望に見える高台にある。この日は、地元の皆さまが、ちのわくぐりの輪を作っておられた。

菊池神社 軍神松尾敬宇中佐の胸像
菊池神社 軍神松尾敬宇中佐の胸像

同神社境内には、軍神松尾敬宇中佐の銅像が安置されている。松尾中佐は、昭和17年5月、特殊潜航挺に乗り豪州シドニー軍港に突撃し、国難に殉じた。敵将グルート提督は、その武勇を讃え海軍葬をもってこれを葬った。神社のご祭神は、主神として菊池家12代・武時公、13代・武重公、15代・武光公である。菊池武時公は、後醍醐天皇の詔勅を奉じて決起し、九州探題・北条英時を討つべく一族郎党と共に探題邸に突入して、全員悲壮な戦死をとげた。いわば建武中興の先駆けであった。武重公、武光公も後醍醐天皇、子の懐良親王に仕え、南朝を支えた。
 菊池一族は元寇に際しても活躍している。弘安4年、元軍に対して防戦。元軍の船に乗り移って敵将を切り伏せた逸話が残っている。神社に隣接して歴史館が建っているが、刀の陳列品が見事で、これだけを見ても菊池一族の壮烈な精神が伝わって来る気がする。

北面武士

 

※菊池神社
熊本県菊池市、菊池を舞台に活躍した菊池一族の居城、菊池城の本丸跡にある。旧社格は別格官幣社で現在神社本庁の別表神社。社域の後方に丘の上には雲上宮があり、懐良親王・良成親王が祀られている。
【住 所】熊本県菊池市隈府1257
【電 話】0968-25-2549
【H P】http://xn--btw921c.net/

※軍神松尾敬宇中佐
大東亜戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。海兵66期。三池崇史監督のアニメ映画「平和への誓約」は松尾中佐の出撃を描いた作品である。

軍神松尾敬宇中佐
軍神松尾敬宇中佐

 


 

防人の防御陣地跡 鞠智(キクチ)城

私はこの連休中に、昔の防人の防御陣地跡に行って来ました。場所は熊本県山鹿市の近くの山上です。祖国の危機に立ち向かった人々の意気は、昔も今も変わりはありませんでした

鞠智城跡の八角形鼓楼 熊本県山鹿市
鞠智城跡の八角形鼓楼 熊本県山鹿市

この防御陣地は鞠智城と呼ばれ、7世紀後半に作られたものです。菊池市から3キロの地点にあります。
 当時、大和朝廷は朝鮮半島の百済と親交を結んでいました。その百済が、唐と新羅の連合軍により660年に滅ぼされます。遺臣たちが百済の復興を狙い、これを支援した中大兄皇子が百済に派兵した。だが、唐と新羅の連合軍との白村江の戦いで、倭軍は大敗を喫した。
その後、「唐が攻めて来る」といった噂が流れ、九州から西日本各地で城を築き防御体制を固めるに至ったのである。
 鞠智城は、福岡県の大野城などの前線基地に食料や武器、兵士などを供給する支援基地だったようだ。遺跡が発掘され、現在は八角型の鼓楼や兵舎が復元されている。丘の上には、当時の防人の銅像が立っており、眼下を見下ろしている。
しかし、先の大戦のような敵を目前にした緊迫感はなく、読んでいる歌も、「父母が頭かきなて幸あれて言いし言葉ぜ忘れかねつる」と、なんとなくほのぼのしている。

北面武士

鞠智城 温故創生之碑 中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導した百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰
鞠智城 温故創生之碑 中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導した百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰

※鞠智城(朝鮮式山城)
白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、唐の侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つである。大宰府とその防衛拠点の大野城・基肄(きい)城の支援基地であった。
【施 設】歴史公園鞠智城・温故創生館
【住 所】熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1
【電 話】0968-48-3178 FAX/0968-48-3697
【H P】http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/

 

※白村江(はくすきのえ)の戦い
660年、百済が唐軍に敗れ滅亡した。百済遺民が大和朝廷に百済復興を嘆願し、中大兄皇子(後の天智天皇)が承諾し出兵。
天智2年夏(663年)に朝鮮半島の白村江(現在の韓国忠清南道錦江河口付近)で行われた、大和朝廷軍・百済遺民の連合軍と、唐(中国)・新羅(韓国)連合軍との戦争。

 


 

天下の奇才 維新の魁 高山彦九郎

久留米市内にある寺院が建ち並ぶ閑静な寺町の一角に、江戸時代の義士、高山彦九郎が祀られている。先日はそこの遍照院に、拝礼に行って来ました

天下の奇才 高山彦九郎が眠る光明山遍照院
天下の奇才 高山彦九郎が眠る光明山遍照院

高山彦九郎は、「寛政の三奇人ー高山彦九郎、林子平、蒲生君平ー」の一人として日本史では知られいるが、その人物の墓が久留米市にあるということは、案外と知られていない。というのも、高山彦九郎はもともと久留米の出身者ではないからだ。
 同氏は、1747年に現在の群馬県太田市で生まれた。     高山彦九郎は、13才の時に「太平記」を読んだことで勤皇の志を持ち、皇権復活と復古神道宣揚の道をひたすら進んだ義士である。

高山彦九郎は全国各地を遊歴する中で、当時の徳川幕府を批判、王政復古を唱えた。いわば尊皇運動の先覚者であった。高山彦九郎は、京都の三条大橋を渡る度に平伏して御所の方を拝礼したことで知られている。現在も三条大橋の脇には、拝礼している高山彦九郎の大きな銅像が安置されている。実は、高山氏は久留米を三度訪れている。寛政五年六月27日、友人である森嘉膳の離れで割腹して憤死した。
その墓の脇には、髭をたくわえた立派な高山氏の胸像が建っており、墓の前には日章旗が交差して立てられている。さらにその脇には、辞世の「朽ち果てし身は土となり墓なくも心は国を守らんものを 松蔭」が掲げられている。高山彦九郎は、幕末の尊皇運動に大きな影響を与えた。吉田松蔭先生もその名を高山氏にあやかって付けたと言われている。
 久留米市では、命日に高山彦九郎を記念する式典が今でも毎年行われている。

北面武士

京都三条大橋上で皇居を拝し「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣
京都三条大橋上で皇居を拝し「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣

※光明山遍照院(真言宗)
遍照院の庭園には、高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に因み「以白庵」という茶室があり、一般にも開放利用されている。

【所在地】  福岡県久留米市寺町56
【H P】  http://www.kurume-hotomeki.jp/hikokuro/hensyouin.html
  

 

高山彦九郎の辞世の句
 朽ちはてて身は土となり墓なくも
        心は国を守らんものを

 


 

佐賀の楠神社 義祭同盟 楠公精神の復活の地

私が今住んでいる大川市の周辺には、さまざまな愛国的な歴史に関係する神社やその他の記念碑があります。その一つ佐賀の「楠神社」に先日行って来ました

佐賀の楠神社
佐賀の楠神社

この神社は佐賀市の中心部にある佐賀八幡神社に隣接しています。どちらかというと有料駐車場の中に建っている神社といった風情です。
しかし、歴史的には佐賀勤王家の集会場所の役割を果たした貴重な遺産でもあります。

義祭同盟之碑の台座碑文
義祭同盟之碑の台座碑文

同藩の国学教師で「佐賀の吉田松蔭」と言われた枝吉伸陽が、ある寺に安置されていた楠公父子の木像を発見した。その後、枝吉伸陽の影響を受けた同藩の志士たちが、木像の下に集まって定期的な会合を開くようになったのを「楠公義祭同盟」と称するに至ったのです。この同盟の名簿には、後に明治維新の元勲として国事に奔走した同藩の功臣がことごとく参列しているのは不思議なことです。
あるいは、大楠公のご神霊がそのような結び付きを生んだのかもしれません。平成12年には、義祭同盟の碑が建てられています。

余談ですが、この楠神社に隣接して美味しいカレー店の「文雅」があります。そこのカレーもついでに食べて来ました。

文雅の カレーライス
文雅の カレーライス

北面武士

 

 

 

 

 

 

 

※楠神社
安政3年(1856)、佐賀藩執政鍋島安房が楠公像を遷し、八幡神社の境内に尊像を祀り、「楠社大祭」を執行した。これが現在の楠神社のはじまりである。
 奥の神殿には、楠正成、正行(まさつら)の父子像が御神体として祀ってある。
佐賀藩では、水戸の尊皇家として名高い徳川光圀より前から、楠公の功績をたたえる動きがあったそうである。佐賀藩士、深江信渓らは寛文3(1663)年、京都の仏師に、「桜井の決別」の正成・正行親子の像の制作を依頼し、永明寺にお祀りしたそうである。毎年、肥前国佐賀藩2代藩主鍋島光茂はじめ重臣一同が参列し祭祀が執り行われたという。わが国で初めて公的に、楠木正成・正行父子を祀った尊皇ゆかりの地である。
しかし、深江の死後に祭祀は途切れ、楠公像も幕末まで深い眠りについたそうである。
そして動乱の幕末の世、佐賀藩藩校弘道館教授で国学者の枝吉神陽(えだよししんよう)が、楠木父子の像の存在を聞きつけ、楠公精神の復活を目指したのであった。
楠木父子を「誰も後醍醐天皇をお助けしない時代に、身を捨ててまで忠義を示した存在」として、尊皇思想の象徴と位置付けたそうである。
幼少から神童と謳われた神陽は、水戸の藤田東湖と東西の二傑と並び称され、明治維新の大業も神陽の『日本一君論』から始まったと言われている。(※松蔭が説いた「一君万民論」を考えれば神陽に受けた影響の大きさが推察できよう)
神陽の実弟は、かの副島種臣であり、薫陶を受けた門弟には、大隈重信(元勲)・江藤新平(初代司法卿)・大木喬任(2代司法卿)等の明治維新の英俊が多数輩出されている。神陽は門下生に「日本史や古来の律令制を学べ」と天皇を中心とする中央集権的な政治制度である律令制などの知識を伝授した。明治新政府が当初採用した太政官制などは副島種臣が起草を担当しているし、江藤新平や大木喬任も司法卿として法整備に活躍出来たのは神陽の教えによるものが大であろう。

「義祭同盟連名帳」楠公祭の参列者名簿 枝吉平左右衛門(神陽)の名前が最初にある(龍造寺八幡宮所蔵)
「義祭同盟連名帳」楠公祭の参列者名簿 枝吉平左右衛門(神陽)の名前が最初にある(龍造寺八幡宮所蔵)

嘉永3(1850)年5月、神陽を発起人として「義祭同盟」が結成され、楠公祭を毎年開いて父子を顕彰した。そして、尊皇思想を藩内に広め、藩論を尊皇倒幕へ向かわせようとしたが、藩上層部の慎重論により、薩長による討幕直前まで佐賀に動きはなかった。

【所在地】  佐賀市白山1丁目3-2 (龍造寺八幡宮境内)
【所在地】  http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=985
  

楠正成がその旗に印した文字が「非理法権天」である。この記念碑は、楠公神社のすぐ前に建っている。
 非は理に勝つこと能はず
 理は法に勝つこと能はず
 法は権に勝つこと能はず
 権は天に勝つこと能はず
 天は宏大にして私無し
人生幾多の波瀾曲折あれどついに天を欺くこと能わず又、天に逆らうこと能わざることを意味する言葉である。

 (出典:ふるさと勧興)