神功皇后が三韓征伐軍団と大分(おおわかれ)

応神天皇を宇美八幡宮で生まれた後、翌年春に皇后は軍隊や群臣を引き連れて険しい山を乗り越えて飯塚市の大分にある開けた場所であった大分(だいぶ)八幡宮に到着する。ここでしばらく留まられ、筑紫の行政をお執りになられた。

福岡県飯塚市 大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)
福岡県飯塚市 大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)

 政事を定められて、引き連れて来た軍隊も解散させて、多くの兵士たちをその国郷へ返された。そこでここを大分(おおわかれ)と言う。

この大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、筥崎八幡宮の元宮とされている格式の高い神社である。

境内も広く、皇后がしばらく政治を見られたこともうなずける。
この神社に伝わる「大分宮縁起」という興味深い文書が残っている。

実は三韓征伐の様子は、古事記にはあまり記されていないのだが、「大分宮縁起」には、そうした様子も古事記などより詳しく書かれている。

この縁起によると、「10月3日、対馬より新羅へ渡らせ給ひしに、飛廉風をおこし、陽候浪をあけ、海中の大魚ことごとく浮いて御船を挟み守り、順風つよく吹きてほどなく新羅へ着き給ふ。この時先立てて海水遠く満ち上がり、新羅の国中におよぶ。これ天神地祇の皇后を助けたまへるしるしなるべし。新羅王驚き恐れ、群臣を集めて曰く、新羅の国を建てしより以来、未だ海水の国にのぼるを聞かず。もし天運尽きて国の海となるにやと、恐れ嘆かれける。その云い未だ終わらざるに、日本の師船海に満ち、旌旗日に輝き、笛鼓の音山川を響かせり。新羅王その神変を怪しみ、皇后の武威盛んなるに恐れ、囚人の如く自ら戒められ、皇后の御船の前に降参し、頭を叩いて曰く。今より後、乾坤のあらんかぎり、日の本の飼部となり、船の往来絶えることなく、馬の統馬の鞭を春秋に奉らん。また海路の遠きをいとわず、年毎に男女の貢物を奉るべしとて、即ち重ねて曰く、東より出る日西にいて、ありなれ川の水逆に流れ、河の石昇りて星辰になるまで、春秋に朝する事を欠き、忍びて梳鞭の貢を止めば、天神地祇共につみなひ給へとぞ申されける。これよりして後代まで、八十艘の船に貢物を積み、日本へ奉らる。皇后、船より上がらせ給うその時、つかせ給いしみ矛を、新羅王の門に立て置いて、後世のしるしとし給う。新羅王すでに降せられしかば、百済、高麗の二王も神異を感じ、皇后の武徳を恐れ同じく降参し、皇后の御陣の前に来たり、この後日本に属し、永く貢物を奉らんよしを申されける。かくして三韓共に我朝に従いしかば、皇后即ち御軍を返して対馬につかせ給う」と書かれている。

                 
北面武士

※大分八幡宮
筥崎宮の元宮として知られる。

福岡県飯塚市 大分八幡宮由緒記
福岡県飯塚市 大分八幡宮由緒記

【御由緒】神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて応神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、当宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。(筥崎宮HPより)
【御祭神】應神天皇
     神功皇后
     玉依姫命
【住 所】福岡県飯塚市大分1272
【H P】http://www.www.kankou-iizuka.jp/homepage/sub.asp?id=90&no=1

「護国の神」となられた応神天皇

母親の神功皇后と共に三韓征伐に同行され、宇美八幡宮で誕生された応神天皇は、その後亡くなられてから御神霊が「護国の神」としての働きを発揮される。

応神天皇御影(河内国誉田八幡宮蔵)
応神天皇御影(河内国誉田八幡宮蔵)

 もともとが誕生した時に腕の筋肉が盛り上がっていたらしい。母親と共に胎児の身で征伐に同行されたからだろうか?

この宇美八幡宮で誕生された後、応神天皇の御胞衣(おえな、ヘソの緒)は、筥に納めて現在筥崎宮が建っている場所に埋められて標識として松が植えられた。

福岡市 筥崎宮 ご神木の 筥松
福岡市 筥崎宮 ご神木の 筥松

筥崎宮の脇には、現在も神木として「筥松」が立っている。
60代の醍醐天皇の御代に、応神天皇の御神霊が七歳の女子に「筥崎は我が誕生のいにしえ、胞衣を筥に入れて松原に埋めた所である。そこに帰って異国の敵を降伏しよう」と託宣された。

福岡市 筥崎宮
福岡市 筥崎宮

そこで太宰少貮の藤原真材が神殿を建て今の筥崎宮となった。

確かに後世の元寇の時には筥崎宮が「敵国降伏」の中心となったのである。

福岡市 筥崎宮 亀山上皇尊像 筥崎宮HPより 
福岡市 筥崎宮亀山上皇尊像 筥崎宮HPより

なお、近年になって筥崎宮の隣に福岡県庁前の公園に銅像が立っている亀山上皇の木造の原型が展示されている。高さ6メートルの立像で、近くで見ると上皇の気迫が伝わってくるようだ。

                 
北面武士

※筥崎宮
【御由緒】筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。(筥崎宮HPより)
【御祭神】應神天皇
     神功皇后
     玉依姫命
【住 所】福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
【電 話】092-641-7431
【H P】http://www.hakozakigu.or.jp/history/

神功皇后が應神天皇を安産にてお産みになられた

神功皇后は、次に須恵町を訪れた。 もう目的地まではあと一歩のところ。

福岡県須恵町 旅石八幡宮拝殿
福岡県須恵町 旅石八幡宮拝殿

だが、お産が近づいて日頃の体調と変わっているためか「あなわびし」とつぶやかれたという。

後の人がその伝承にちなんでこの場所を「わびし」と名付けた。その後、それがなまって「旅石」という地名となった。

夫の仲哀天皇を亡くされ、見知らぬ地でお産をしなければならない皇后のご心境はいかばかりであっただろうか。

三韓征伐を成し遂げた強気の皇后ではあるが、「わびし」の一言の中に万感の思いが込められているような気がする。

福岡県須恵町 旅石八幡宮 わびしの遺跡
福岡県須恵町 旅石八幡宮 わびしの遺跡

この場所に「旅石八幡宮」が建っている。この神社の裏手には、「わびしの遺跡」の碑も建っている。

福岡県宇美町 宇美八幡宮
福岡県宇美町 宇美八幡宮

次いで、皇后は宇美町に着き、いよいよ出産の準備に取りかかる。この地が、今の宇美八幡宮だ。

言い伝えによると、周囲の敵を警戒されて産屋の周りに八つの幡を立てて兵士を武装させて警戒したという。

これが後世、応神天皇を祀る神社が「八幡宮」と称されるようになったいわれである。

福岡県宇美町 宇美八幡宮 子安の木
福岡県宇美町 宇美八幡宮 子安の木

皇后は槐(えんじゅ)の木に取りすがって安産されたと言われる。そこで同神社ではこの木を「子安の木」と言って人々が安産を祈っている。

                 
北面武士

※旅石八幡宮

福岡県須恵町 旅石八幡宮 御由緒
福岡県須恵町 旅石八幡宮 御由緒

【御由緒】神功皇后蚊田の里え御行啓の御途次此所に来り給う。
然るに御産の催しにて御心例ならずおわしける故、石に御腰掛ましませるに「あなわびしとの給いける」。この地を名付けて「わびしを多米寺(たべし)と云う」。

【御祭神】神功皇后
應神天皇
     伊弉諾尊
     玉依姫命
【住 所】福岡県粕屋郡須恵町旅石634

※宇美八幡宮
【御由緒】『皇后新羅』より還り給う十二月十四日誉田天皇(應神天皇)を筑紫の蚊田に生み給う時今其の産所を號(なず)けて宇瀰という。(日本書紀)
【御祭神】應神天皇
     神功皇后
     玉依姫命
     住吉大神
     伊弉諾尊
【住 所】福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1番1号
【電 話】092-932-0044
【H P】www.umi-hachimangu.or.jp/

神功皇后が三韓征伐から帰還

三韓征伐から帰還された神功皇后の軍船は、途中で悪天候に会い船団はバラバラになったらしい。

福岡県大川市 風浪宮
福岡県大川市 風浪宮

その一部は、皇后の乗った船を中心とした六隻ほどの船団で、有明海の沿岸にある大川市まで流された。

皇后の一行が大川市の榎津に上陸した時、一羽の白鷺が飛び立った。それを見て皇后は、「あれは船団を無事に導いてくれた住吉大神の化身である」として部下の安曇連磯良丸(あずみのいそらまる)にその白鷺を追いかけさせた。その鳥は三キロほど飛んで楠の上に止まった。

そこでその地に神様を祀ることにした。

それが地元の人々から「おふろうさん」として親しまれている同市の「風浪宮」である。

この大川市で私は五年間市長をさせて頂きました。その間、毎朝市役所に出向く前にこの神社に参拝するのが日課だった。おかげで数々の奇跡的なご加護を頂いた。非常に霊顕あらたかな神社であることは私が保証する。

皇后の船団はその後、元出港した香椎周辺に上陸した。

福岡県粕屋町 日守八幡神社(阿恵日守八幡宮)
福岡県粕屋町 日守八幡神社(阿恵日守八幡宮)

皇后はすでに臨月を迎えていたので神様に指示された出産に適切な土地を目指していた。その途中でいくつかのエピソードがあり、その場所に神社が建てられている。

その一つが粕谷町にある日守(ひまもり)八幡宮である。

この場所を通過した時、しばらく御輿が止まった。皇后が「何事だろうか」と日を見守ったことからこの名前がついた。

この神社周辺は、今では宅地化されていて神社を見つけるのに苦労した。住宅地の真ん中にポツンと建っているのだが、それでもやはり神社には独特のオーラがある。古びているがなかなか良い神社だった。

次いで皇后は、同町駕与丁公園の大きな池の河畔に向かった。この地で休息された皇后は、村人に御輿を担がれて陸路を進むことになった。

福岡県粕屋町 駕輿八幡宮
福岡県粕屋町 駕輿八幡宮

現在その地には、駕輿(かよい)八幡宮が建っている。

この神社から眺める池の景色も素晴らしい。

福岡県粕屋町 駕輿八幡宮の横にある駕輿丁(かよいちょう)池
福岡県粕屋町 駕輿八幡宮の横にある駕輿丁(かよいちょう)池

この人々は南側の階段から池に降りる階段の下まで集団で住んでいた。この集団はその後、駕輿(かよい)丁座(天皇が外出される時、乗り物を担ぐ人々の組織)と呼ばれることになった。

                 
北面武士

 

※風浪宮
【御由緒】神功皇后が新羅御新征よりの帰途(西暦一九二年)軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして白鷺の止る所を尾けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました。(風浪宮HPより)
【御祭神】少童命三座
     (表津少童命、中津少童命、底津少童命)
     息長垂姫命(神功皇后)
     高良玉垂命
     住吉三神
【住 所】福岡県大川市酒見726-1
【電 話】0944-87-2154
【H P】www.ofurousan.or.jp/

※駕輿(かよい)八幡宮
【御祭神】神功皇后(息長足姫命)
     応神天皇(八幡大神)
     玉依姫命(神武天皇の母)
     住吉三柱神
【住 所】福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁987
【電 話】092-325-0309

※日守(夷守)八幡神社 (阿恵日守八幡宮)
【御由緒】神宮皇后は、お産のために現在の宇美町に向かいましたが、その途中日守付近で休憩しました。そして“日を守りたまいて(太陽をじっと見て)”、「今は何時頃ですか。」と尋ねられた故事から休憩した場所を「日守」と呼ぶようになり、神宮皇后が腰掛けた場所をまつって日守神社ができたと言い伝えられている。(粕屋町HPより)
【御祭神】神功皇后(息長足姫命)
     応神天皇(八幡大神)
     菅原神
【住 所】福岡県糟屋郡粕屋町仲原2895

※駕輿(かよい)丁とは
「駕」は乗り物の意。「輿」は神輿(神のみたま)。「丁」とは身分の高い人を運ぶ集団。

神功皇后が三韓征伐に出撃!

三韓征伐に向けて準備の整った神功皇后は、いよいよ日本から韓国に出撃することになった。

福岡市 名島神社
福岡市 名島神社

大本営を置いている香椎にほど近い黒津の港に軍船を集結させて皇后も乗船した。

各地から集まった軍勢も船団に乗り込んだ。

地元に残っている伝承では、乗船の際にそれぞれが自らの郷土の名前と個人名を名乗って乗船したという。

いかにも各地の勇者が参集したさまをうかがわせるではないか。

こうした「名乗り」をしたことから、この島は名島と名付けられた。今はそこに「名島神社」が建っている。

福岡市 小戸大神宮
福岡市 小戸大神宮

皇后軍はいくつもの港から出港したようだ。各地に同様の伝承が残っている。

その一つが博多の西側、今の姪浜にある小戸大神宮である。

この場所は神代に黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが御祓を行った場所と言われている。その意味では神聖な場所だが、やはり神功皇后が出港されたとの伝承が残っている。

この場所には、皇后が韓国からお戻りになったとの伝承も残っている。その際、水際で下着(あこめ)が濡れたので砂浜で乾かした。そこで「あこめの浜」と言っていたが後になまって「姪浜」になったという。

佐賀県唐津市 湊八坂神社
佐賀県唐津市 湊八坂神社

皇后軍は、各地から出港したようだが一番西側では唐津市の湊地区の湊八坂神社にも伝承が残っている。

この神社は厄除けで有名だが、それに関しては面白い言い伝えが残っている。

「神功皇后が渡韓する際、多数の軍船を率いて当地に立ち寄られたところ、玄海灘が大いに荒れて出港できませんでした。そこで皇后が榊を立て安全を祈願し、その榊を焼いた灰を振り禊を行ったところ、海も凪いで無事目的を達成された」というのです。

湊八坂神社では、この故事に習って厄年の氏子が参拝者に灰を振りかけ、災厄を払い、無病息災を祈願する灰振り祭りが毎年2月11日に行われている。

                 
北面武士

神功皇后が三韓征伐の「宇気比」を行った地

神功皇后の三韓征伐 月岡芳年
神功皇后の三韓征伐 月岡芳年

羽白熊鷲、田油津姫などの反抗する部族を平定して内憂の消えた神功皇后は、ようやく本来の課題である三韓征伐に乗り出す準備に取りかかることになる。

福岡県糸島市  染井神社
福岡県糸島市  染井神社

糸島市には、染井神社という名の古風な神社がある。

うっそうとした木に囲まれているが、ここは皇后が三韓征伐が成功するか否かの「宇気比(ウケヒ)」を行った場所である。

この神社には井戸があり、皇后は鎧をその水に浸され「戦いに勝利を得るなら緋色(赤)に染まりますように。勝てないなら元のままの色でありますように」と祈った。

すると鎧はたちまち緋色に染まったという。

井戸はよく分からなかったが、神社の前面にはこんこんと清水の湧く小さな池があった。あるいは、そこが元の井戸かもしれない。

福岡県糸島市  染井神社にある 鎧掛松の木
福岡県糸島市  染井神社にある 鎧掛松の木

皇后は緋色に染まった鎧を松の木にかけて干された。その松の木も今では朽ちて倒れているが、神社の脇に屋根に被われて残されている。

皇后は出征する時、仲哀天皇の子供を身ごもっていた。その出産を遅らせるため、途中で卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、懐石として出産の延期を祈られた。

福岡県糸島市  鎮懐石八幡宮の懐石
福岡県糸島市  鎮懐石八幡宮の懐石
福岡県糸島市  鎮懐石八幡宮
福岡県糸島市  鎮懐石八幡宮

三韓征伐を終えた後、経尺の璧石を子負が原の丘の上に拝納された。それが今の鎮懐石八幡宮である。

その後、いよいよ韓征伐に向かう直前に皇后は、神山と言われている浮嶽の山頂に登り、戦勝を祈願される。

その下方が今の浮嶽神社となっている。

福岡県糸島市  浮嶽神社
福岡県糸島市  浮嶽神社

ともかく、徹頭徹尾神に祈り、神の指示される通りに行動された神功皇后であった。

                 
北面武士

※「うけひ」とは
うけひは古代日本で行われた占いであり、宇気比・誓約・請霊・承霊・誓 などと書く。

※鎮懐石八幡宮
九州最古の万葉歌碑が残る。
【御祭神】神功皇后(息長足姫命)
     応神天皇(八幡大神)
     武内宿禰
【住 所】福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原
【電 話】092-325-0309

※浮嶽神社
平安時代に造られた国指定重要文化財「木造仏座像」「木造地蔵菩薩立像」「木造如来立像」の仏像群が安置されている。
【御祭神】伊弉那岐尊
     伊弉那美尊
     菊理姫尊(白山比咩大神)
【住 所】糸島市二丈吉井954
【電 話】092-326-5641

神功皇后による田油津姫の征伐

神功皇后は、福岡県中部を支配していた羽白熊鷲軍を破った後、今度は南部を支配していた土蜘蛛の女王である田油津姫の征伐に向かうことになる。

福岡県柳川市 鷹尾神社
福岡県柳川市 鷹尾神社

神功皇后軍は筑後川を下って有明海に出て上陸して、この地方に進軍して大本営を設置した(柳川市にある「鷹尾神社」)。

すると、地元の漁師がブリを献上して踊りを披露した(今ハンヤ舞いとして伝わっている)。

何が原因かは分からないが、田油津姫は当時、朝廷に対して恨みを持っていたらしい。地元には、田油津姫が神功皇后の暗殺を企てたという物騒な伝承も残されている。

福岡県みやま市 老松神社
福岡県みやま市 老松神社

いずれにせよ、ここから田油津姫軍の攻略に取りかかる。八キロほど離れた今はみやま市となっている場所に「老松神社」がある。

ここで田油津姫が殺害された。

田油津姫には、夏羽という兄がおり姫を助けんと軍勢をつのって駆けつけた。

しかしその途中で妹の敗戦を知り、逃げ帰ったという。

福岡県田川市 若八幡神社
福岡県田川市 若八幡神社

夏羽は自分の地元に帰り館に立て込もったところを追ってきた皇后の軍勢に攻められ焼き殺された。

その館跡が田川市にある「若八幡神社」である。

                 
北面武士

冥福を祈る・・・西部邁氏が貫いた「自裁死」

保守の真髄  西部邁 From Amzon
保守の真髄  西部邁 From Amzon

発見された多摩川の遺体近くで遺書があったことから、同氏は多摩川に入水自殺したようだ。
あらためてご冥福を祈りたい

西部邁氏は、東大経済学部に在学中に全学連の中央執行委員として安保騒動の指揮を取って活躍した。

もともとは我々とは反対側にいたわけだが、その後は保守系論客として活躍した。

晩年はよくテレビの対談番組に出演して気を吐いていた。テレビで見ると、少し手を患っている様子だった。

新聞報道によると、最後の著作となった「保守の真髄」(講談社現代新書)のあとがきの中で、娘さんに当てた遺書を書いているという。ある意味、覚悟の自殺だったようだ。

平成26年に妻の真智子さんをガンで亡くし、先立たれた後、自分の看病を誰がするのか?同氏は、病院では死ねないとして「自栽死」を表明し、正当化していたという。つまりは自殺である。

私は、自殺は絶対にしてはいけない行為であると信じている。

なぜならば、それは今生に生まれて来た神様との約束に反するからである。

病死であれ、自然死であれ、死は神様に任せれば良いのである。

                   
北面武士

 

※西部邁(にしべ すすむ)氏
昭和14年(1939年)北海道長万部町生まれ。
元東京大学教養学部教授。

仲哀天皇・神功皇后の熊襲征伐

仲哀天皇が、朝廷になびかないで反抗する豪族の羽白熊鷲(はしろくまわし)軍の放った流れ矢に当たって急逝された後、神功皇后は三韓征伐に向かうよりも、まず内患を断つことが急務であることを悟った。

神功皇后の熊襲征伐
神功皇后の熊襲征伐

そこで参謀長の武内宿禰と協議して、香椎を経て筑紫に向かったのである。

しかし、その長の羽白熊鷲の権力は想像をはるかに絶するものがあった。

福岡県福岡市 大神神社
福岡県福岡市 神功皇后御征朝の節、大和の将兵此の地に駐屯の折勧請したるものと伝う大神神社

そこでまず地元の神様をお祀りして大神神社を創建し、自らの刀矛を奉った。

そうしたことで兵隊も自ずと集まったのである。

さらに羽白熊鷲軍を取り囲むように七つの陣地を構築した。

福岡県筑前町 神功皇后が 羽白熊鷲を撃つために 設営した 陣地跡の一つがこの「老松神社」
福岡県朝倉市 神功皇后が 羽白熊鷲を撃つために 設営した「七ヶ森」 陣地跡の一つ「三府の森」(みふのもり)がこの「老松神社」

包囲戦での羽白熊鷲軍との激戦死闘の結果、ついにそそぎので羽白熊鷲の軍を殲滅したという。
今、羽白熊鷲の墓は、朝倉市の「水の文化村」の高台の一角に残っている。

                   
北面武士

福岡県朝倉市矢ノ竹にある「水の文化村」 神功皇后 に撃たれた 羽白熊鷲の 墓
福岡県朝倉市「水の文化村」にある 神功皇后 に撃たれた 羽白熊鷲の 墓

※あまぎ水の文化村
【住 所】朝倉市矢野竹831
【電 話】0946-25-0323
【休園日】毎週月曜日及び毎月第3火曜日
【H P】http://www.mizunobunkamura.com/

日本の古代の城「水城跡」

日本書紀に「筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とある「水城(みずき)跡」。最近、市の特別史跡として近隣も整備され、資料館も水城の防壁の中に設立されました。この資料館は、水城の東門跡のすぐ脇に設置されています。

福岡県太宰府市  水城跡(みずきあと)
福岡県太宰府市  水城跡(みずきあと)

この大宰府市にある「水城(みずき)跡」に中島君と一緒に見に行きました。

水城は、白村江の戦いで日本軍が唐と新羅の連合軍に敗れた後、太宰府の政庁を護るために作った防衛線です。長さは1・2キロにおよび、高さ9メートル、幅8メートルの防壁にその前面に堀を築いています。

これで博多平野から侵攻する敵を防ごうとしました。

防壁には東西二ヶ所に門が設けられていました。

このほかに政庁の南北に山城が建設されました。

北が福岡県大野城市にある「大野城」、南が佐賀県基山町にある「基肄城(きいじょう)」です。大野城は、四王山の峰みねに鉢巻きを巻くように土塁や石塁が取り囲んでいます。

福岡県大野城市  古代の山城 大野城 の 百間石垣 
福岡県大野城市  古代の山城 大野城 の 百間石垣

外郭線の総延長は8キロにおよび、古代山城の中でも最大規模を誇っています。今では、石垣の一部が「百間石垣」として残っており、往時の偉容を偲ばせています。
南の基肄城は、404メートルの基山から東側の峰、谷を取り込んで延長4・4キロの土塁、石塁が作られています。今は水門跡が整備されています(写真)。ちょうど雨が降っていたこともあり、水門跡からはとうとうと水が流れていました。いずれの施設も古代日本人の国防精神の旺盛さを物語っています。

                 
北面武士

福岡県太宰府市  水城跡と大野城跡
福岡県太宰府市  水城跡と大野城跡

 

※水城跡
福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城。