北条時宗と悲劇の大塔宮(護良親王)

日頃行きたいと思っていた鎌倉に取材に行くことにした。
狙いは、元寇で活躍した時の執権、北条時宗。それと建武中興で活躍するも、後で非業の最後を遂げた後醍醐天皇のご子息、大塔宮・護良親王である。

後醍醐天皇の皇子で大塔宮と呼ばれた護良親王『護良親王出陣図』
後醍醐天皇の皇子で大塔宮と呼ばれた護良親王『護良親王出陣図』

元寇時の執権、北条時宗は若い頃から禅宗に傾倒し、元に滅ぼされる南宗から何人もの優れた禅僧を日本に招き入れ、師と仰いだ。その一人が無学祖元であった。

神奈川県鎌倉市 円覚寺 北条時宗公御廟所
神奈川県鎌倉市 円覚寺 北条時宗公御廟所

その師の無学祖元のため、元寇の後に建てたのが、北鎌倉駅のすぐ近くにある円覚である。

 

 

瑞鹿山 円覚興聖禅寺三門
瑞鹿山 円覚興聖禅寺三門
神奈川県鎌倉市 雲巌寺を開きになった 無学祖元の像
神奈川県鎌倉市 雲巌寺を開きになった 無学祖元の像

この寺は、禅宗の寺らしく派手さは無いものの重厚な雰囲気がいまだに漂っている。本堂には本仏と、その左脇に開祖の無学祖元の像が飾られている。

の無学祖元は、元軍を迎えた北条時宗に「莫(まく)煩悩」の言葉を与えた。

その意味を時宗から聞かれると、師は「春から夏の間に博多で大きな戦があるだろう。しかし、さっと風が吹いて万艦はすべていなくなってしまう。だから、時宗公は何も心配はいらない」と答えた。

まさに結果はその通りだった。大将はドンと腹を据えておれ、との言葉が時宗にとってどんなに大きかったことか。

時宗は、同時代人から「相模太郎胆(きも)(かめ)の如し」と評されている。良い師を持ったが故のことだったのだろう。

悲劇の大塔宮 土牢の親王と虐刃(鎌倉宮HPより)
悲劇の大塔宮 土牢の親王と虐刃(鎌倉宮HPより)

いつの時代にも、「悲劇のヒーロー」がいる。

源平合戦の時は、源頼朝に疎んじられて奥州で死なざるを得なかった源義経だし、建武中興では足利尊氏の弟に幽閉後に殺された後醍醐天皇の長男の大塔宮・護良親王であろう。

大塔宮は、天皇を支えて楠正成らと奮戦して、建武中興を成し遂げたヒーローだった。

神奈川県鎌倉市 護良親王が 幽閉された土牢
神奈川県鎌倉市 護良親王が 幽閉された土牢

征夷大将軍に任ぜられたものの、賊将足利尊氏の出現により無実の罪を着せられて、捕らわれの身となり、鎌倉に護送され、土牢に幽閉されてしまう。九ヶ月間も苦しまれた後、尊氏の弟の命を受けた淵辺義博によって斬殺されてしまう。

しかし、豪胆な親王は、その剣を噛みきり、首をはねられた後もそれを放さなかったという。

神奈川県鎌倉市 鎌倉寓
神奈川県鎌倉市 鎌倉寓
神奈川県鎌倉市 護良親王墓の碑
神奈川県鎌倉市 護良親王墓の碑

明治維新がなった翌年、明治天皇は、維新の大業ができたのは、親王のご先徳によるものとされ、この終焉の地に鎌倉宮を建てられたのである。
               

 

北面武士

 

PS. 鶴岡八幡宮まで行きましたが あいにく流鏑馬 がありまして 本宮には行けずじまい、仕方がないので 下で参拝を済ませました。馬が走った後の 後ろ姿だけ 写真に撮れました あっはっは・・・

江戸の総鎮守・神田明神に参拝

久しぶりに上京しました。知人から「頼みごとがある」ということで、無理して上京したのですが、少し時間があったので、わが社の中島君のたっての願いをかなえに東京の神田明神様に参拝することにした。

東京 神田明神拝殿
東京 神田明神拝殿

おかしなもので、私も長年東京に住んではいたものの、神田明神様に参拝したのは数回しかない。

神田明神は、「江戸の総鎮守」と称されており、天平2年(730年)に創建された江戸(東京)で最も古い神社です。

東京 神田明神隨神門
東京 神田明神隨神門

東京の都心部一帯の氏神様です。

東京には、平将門を祀る神社がままあるが、この神社も平将門を祀っている。

「前太平記擬玉殿 平親王将門」 浮世絵師・豊原国周の作
「前太平記擬玉殿 平親王将門」 浮世絵師・豊原国周の作

将門といえば「最強の怨霊」として恐れられる存在である。

関東大震災後、大手町にある平将門の首塚を整理しようとしたところ、大臣や関係者が次々と死亡しそのままに残すに至った。

また戦後はGHQがここを駐車場にしようとしたところ、ブルドーザーが横転して作業員が死亡する事故が起きた。

つまり、この首塚はアンタッチャブルなのである。

その一方で、平将門は庶民の味方とも見られて愛されている。

神田明神でも祭神として祀られているが、同神社では「平将門命は、悪政に苦しむ庶民たちを自らの命をなげうって守られた東国の英雄です」と讃えている。
               
北面武士

神武天皇所縁の地を訪ねてⅥ

大分県佐伯市 大入島
大分県佐伯市 大入島

神武天皇の船団は、美々津港を出発して北上し、大分県佐伯市沖に至る。そこの大入島に給水のため上陸する。

大分県佐伯市 佐伯港からフェリーで大入島宿毛港へ
大分県佐伯市 佐伯港からフェリーで大入島宿毛港へ

私は、この大入島での神武天皇の上陸伝説を確かめるため、週末を利用して佐伯市まで出かけることにした。

やはり車に乗ってトコトコ出かけると、時間がかかった。朝8時に大川を出たが、佐伯市の港に着いたのは午後3時少し前だった。

佐伯港から大入島までは、わずか1キロほども離れていないが、橋がないためフェリーに乗らなければならない。実際にフェリーに乗ってみると、10分ほどで大入島に着いた。

この小さな島でも周すると17キロもある。

上陸地点は島の反対側にあるので、車で行くしかない。

片側1車線しかない曲がりくねった道路を30分ほどかけてようやく上陸地点の「神の井」に着いた。

この「神の井」には、鳥居の外に神武天皇の上陸伝説を示す石碑、看板なども見受けられた。

大分県佐伯市大入島日向泊 皇祖東征舟泊記念の石碑
大分県佐伯市大入島日向泊 皇祖東征舟泊記念の石碑

少し階段を下ると地面に掘ったような井戸があり、その中に少し白濁した水を見ることができる。柄杓で飲んでみたが、美味しかった。この井戸は今でも水が湧き出ているようだ。

大分県佐伯市大入島日向泊 神の井
大分県佐伯市大入島日向泊 神の井
大分県佐伯市大入島日向泊 神の井
大分県佐伯市大入島日向泊 神の井

神武天皇が上陸された時、この島には井戸がなかったらしい。
説明書には、島民の窮状を聞いた天皇が「弓矢で海岸を掘るとたちまち美しい豊かな清水がわき出たと伝えられる。

この神の井は満潮時には海水に没する不思議もあって大切に保存されている」と書かれている。

大分県佐伯市大入島日向泊 反対側の海
大分県佐伯市大入島日向泊 反対側の海

この「神の井」は、伝説の地ばかりでなく、素晴らしい場所である。ここから見る海の景色も素晴らしかった。

               
北面武士

神武天皇所縁の地を訪ねてⅤ

神武天皇の出生の地、高原町に行くことにした。この高原町は、目下噴火中の霧島の近くにある。

宮崎県高原町 狭野神社
宮崎県高原町 狭野神社

町に近くなるにつれて道路脇に「噴石や火山灰に注意」と記された看板が目に付くようになった。あまり長居は無用なところのようだ。

高原町には神武天皇をお祀りする狭野神社がある。

その上に皇子原公園があり、出生地にちなんだレクリエーション場となっている。

宮崎県高原町 皇子原神社
宮崎県高原町 皇子原神社

皇子原神社には古墳群が確認されている。説明文には「高原町古墳、別名皇子原古墳。皇子原神社を中心に六基散在」と書かれている。

この場所から少し下ったところに、父親のウガヤフキアエズノミコトの皇居のあった「宮の宇都」がある。

宮崎県高原町 宮の宇都

神武天皇は幼少時代に父親と共にここに住んでいたと言われている。

               
北面武士

※狭野神社
社名は神武天皇の幼名「狭野尊(サノノミコト)」に因むものである。

宮崎県高原町 狭野神社
宮崎県高原町 狭野神社

【御祭神】神日本磐余彦天皇(神武天皇)
     吾平津姫命
     天津彦火瓊瓊杵尊
     木花開耶姫命
     彦火々出見尊
     豊玉姫尊
     鸕鶿草葺不合尊
     玉依姫命
【住 所】宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田117

 

※皇子原神社(おうじばるじんじゃ)
この地・皇子原は「神武天皇生誕の地」で、とくに神社背後の「産婆石」付近で生誕されたと伝えられている。


【御祭神】神倭伊波礼天皇(神武天皇・御幼名 狭野尊)
【住 所】宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田3-251

 

※宮の宇都
ウガヤとワカミケヌ伝説の地。降臨されたニニギノミコトが本拠として高千穂宮を設けられた所と伝えられ、後に神武など四皇子が父ウガヤフキアエズと住まわれた所と伝わる。
【住 所】高原町蒲牟田

神武天皇所縁の地を訪ねてⅣ

神武天皇の皇軍は、ようやく日向市の美々津港に到着する。ここは船を建造する良い木材もあるし、良港である。

宮崎県日向市 立磐神社
宮崎県日向市 立磐神社

出港の準備をしていたところ、夜半に風向きが急に変わって出港することになった。そこで寝ていた軍隊を「起きよ」と叩き起こした。もちろん地元民の人々も起きた。

地元の人々は、神武天皇の一行に食べてもらおうと、アンの入ったお餅を作ろうと用意していたが、作っている暇がない。そこでアンと餅を一緒について出してしまった。これがこの地方の名物「つきいれ団子」の始まりである。私も食べたことがあるが、そんなに旨いものではなかった。やはり餅とアンは別々に作ってくるんだ方が美味しい。

2700年ほど経った今日でも、この時の風習がもう一つ残っている。それが「起きよ」祭りである。

私も一度この祭りを見に行ったことがある。

見物客は近くの立磐神社に集合する。

午前4時に竹の笹の木を持った子供たちが街の一軒一軒の戸を軒並み「起きよ」と叩いて廻るという変わったお祭りだ。

このような祭りが残っていること自体が、神武天皇の美々津港からの出港が実際にあったことを雄弁に物語っている。

宮崎県日向市美々津 立磐神社に「海軍発祥の地碑」があり、錨が置かれてい
宮崎県日向市美々津 立磐神社に「海軍発祥の地碑」があり錨が置かれてい

この出港を記念して立磐神社の参道の前に「日本海軍発祥の地」の大きな碑が建っている。

この碑の説明文には、「日本海軍は、天皇が統治された海軍でありました。

このことから国が、神武天皇ご親卒の水軍が、初めて編成され、進発した美美津の地を「日本海軍発祥の地」と定め、紀元2600年記念事業の一環として建立されました。

この碑文は時の内閣総理大臣、米内光政の筆で書かれました。

宮崎県日向市 美々津港と海軍の錨 「昭和17-8」の銘が刻印されてある
宮崎県日向市 美々津港と海軍の錨 「昭和17-8」の銘が刻印されてある

しかし、戦後GHQにより碑文が破壊され、それを昭和44に復元された。」と記されている。さらにこの碑の前に海軍の錨が安置されている。

               
北面武士

 

※立磐神社
神武天皇御東遷の際、美々津港よりお船出に当り、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭に住吉大神とも申し奉る、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第十二代景行天皇の御代に創祀されたものである。
【御祭神】神武天皇
     底筒男命
     中筒男命
     表筒男命
【住 所】宮崎県日向市美々津町3419

神武天皇所縁の地を訪ねてⅢ

神武天皇の皇軍は、北上します。

 

宮崎県新富町 湯之宮神社
宮崎県新富町 湯之宮神社

新富町には湯之宮神社がありますが、そこで最初の軍議が開かれました。
ここはわき水が豊富な土地だとか。

宮崎県新富町 座論梅の 解説 文
宮崎県新富町 座論梅の 解説 文

向かいには「座論梅」という梅林がある。

梅林の説明板には「神武天皇が湯あみして梅の枝をついたところ、座論梅ができた」という伝承が書かれている。

昔はこの地に温泉が出ていたらしい。

この軍議をした場所から「座論梅」の名がついたようだ。

この神社から10キロほど北に行ったところに、鵜戸神社がある。

宮崎県日南市 鵜戸神社
宮崎県日南市 鵜戸神社

これは鵜戸神宮とは別の神社だが、同じ系列の神社で神武天皇は神々に無事を祈った。

同神社には「神武天皇巡幸伝説碑」がある。

この神社には戦時中、日本軍の砲台が築かれており、そのために敵機の攻撃を受けて石碑は二つに折れている。

宮崎県日南市 破壊された石碑
宮崎県日南市 破壊された石碑

出港の適地を探していた神武天皇は、さらに北上して日向市の美々津港に至る。

ここには船を造る良い材木も豊富。出港にはうってつけの場所だった。河岸には立磐神社がある。

               
北面武士

 

※湯之宮神社
神武天皇が東遷の際に沐浴をした地と伝おり、神社の側に湯浴み跡が残されている。
【御祭神】猿田彦命
【住 所】宮崎県児湯郡新富町大字新田18633-2

 

※鵜戸神社

宮崎県日南市 鵜戸神社 玉橋から
宮崎県日南市 鵜戸神社 玉橋から

【御祭神】日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊
     大日孁貴(天照大御神)
     天忍穂耳尊
     彦火瓊々杵尊
     彦火々出見尊
     神日本磐余彦尊(神武天皇)
【住 所】宮崎県日南市大字宮浦3232

神武天皇の建国の理念「八紘一宇」

宮崎神宮の近くに平和台公園がある。
そこに有名な「八紘一宇」の文字が書かれた塔が立っている。

宮崎県宮崎市 八紘之基柱(あめつちのもとはしら)
宮崎県宮崎市 八紘之基柱(あめつちのもとはしら)

戦後この塔は、日本軍の侵略戦争の象徴としてGHQから目の敵にされ、八紘一宇の字も削られてしまいました。

しかし、日本独立後は字は復活したのです。

もともと「八紘一宇」とは、神武天皇の建国の理念で、「八紘を覆いて家となさん」という言葉に由来したもの。

「八方の人々をまとめて一つの家族のようにしよう」という意味です。

いわば家族主義的な極めて平和的な理念なのに、占領軍によって悪宣伝されたのです。

私たちは、そのことをきちんと理解しなければなりません。

そして、崇高な建国の理想を掲げた神武天皇のことも。

               
北面武士

※八紘之基柱(あめつちのもとはしら)
「八紘一宇の塔」ともいう。
【住 所】宮崎県宮崎市平和台公園

宮崎県宮崎市 八紘之基柱(平和の塔)
宮崎県宮崎市 八紘之基柱(平和の塔)

神武天皇所縁の地を訪ねてⅡ

日南市にある神武天皇の最初の妃だった吾平津姫(アヒラツヒメ)をお祀りしている吾平津神社に参拝した。神社の前には、吾平津姫が神武天皇の無事を祈って見送る像が立てられている。

宮崎県日南市 吾平津神社 と 姫の像
宮崎県日南市 吾平津神社 と 姫の像

この神社は、渥美清の映画「男はつらいよ」シリーズの舞台にも登場したユニークな神社だ。

同姫との間には皇子が1人いたようで、その皇子が祀られている神社も探したけど分からなかった。

その後、宮崎市まで北上して、いよいよ神武天皇をお祀りしている宮崎神宮に向かう。

宮崎県宮崎市 宮崎神宮
宮崎県宮崎市 宮崎神宮

この神社は境内も広いし立派な神社だ。この日は、どういうわけか新生児の「お宮参り」の人々が多かった。ざっと見ただけでも10組ぐらいはあっただろうか。

参拝した後、神社の休憩室に入ると神武天皇の祖父たちに関するさまざまな絵画の大きな写真が飾ってあった。

その中でも一番気に入ったのが、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが小川のほとりで出会ったシーンを描いたもの「逢初川」だった。

宮崎県西都市 あいそめ川 のシーンの絵画
宮崎県西都市 あいそめ川 のシーンの絵画

絵の解説書には「笠沙の碕というのは、記紀にある吾田長屋笠沙之碕(あがたのながやのかささのみさき)、のことで、ニニギノミコトが日向の高千穂の峰に天下りになり、それより笠沙の碕に至り、そこに都せられた時に、この国に美人あり名をコノハナサクヤヒメと申し上げた」と書かれていた。この解説書で、やっと2人の出合いの場所の謎が解けたような気がした。

               
北面武士

 

※吾平津神社(乙姫神社)
神武天皇の妃アヒラツヒメは神武天皇の東征には同行せず、この地でその成功をお祈りしたと伝えられている。
【御祭神】吾平津昆売命
     天照皇大神
     武甕槌命
     倉稲魂命
     天児屋根命
     木花咲耶姫命
     経津主命
【住 所】宮崎県日南市材木町9-10
【H P】http://www.www.pmiyazaki.com/jinjya/ahiratsu_j/

 

※宮崎神宮(神武天皇御廟)

宮崎県宮崎市 宮崎神宮拝殿
宮崎県宮崎市 宮崎神宮拝殿

【御祭神】神日本磐余彦尊(神武天皇)
【住 所】宮崎県宮崎市神宮二丁目4-1

神武天皇所縁の地を訪ねて

神武天皇の取材に入ることにした。 だが1日中雨に祟られてしまい大した取材はできなかった。
神社にも似たような名前のところがあることに初めてきがついた。最初、鹿児島神社と鹿児島神宮を取り違えてしまった。

鹿児島県霧島市  鹿児島神宮
鹿児島県霧島市  鹿児島神宮

鹿児島神社は、鹿児島市内の鹿児島県護国神社の隣にある神社だが、鹿児島神宮は霧島市にある。

その違いが分からず、午前中はうろうろしてしまった。

神武天皇の関係しているのは、霧島市にある鹿児島神宮の方だった。結局、雨の中を鹿児島神宮にたどり着いた。ここは「大隅国一之宮」と称するだけあって鳥居も大きく立派だった。

ご祭神は、俗に山幸彦で知られるホオリノミコト。神武天皇が祖父のホオリノミコトを偲んで建立したと伝えられている。

鹿児島県霧島市  宮浦宮
鹿児島県霧島市  宮浦宮

その後は、同じ霧島市の宮浦宮に。宮浦宮境内は、神武天皇ご東征前の仮の宮であった。神武天皇がたびたび訪れたと伝えられている。

宮崎県日南市 駒宮神社
宮崎県日南市 駒宮神社

最後に山中の道路を南下して日南市の駒宮神社に行った。

神武天皇は吾平津姫をお妃に迎えられ、愛馬龍石号を友にこの地に住まわれた。そこでこの地を駒宮神社と称するに至ったようだ。

宮崎県日南市  駒宮神社の神武天皇と愛馬の像
宮崎県日南市  駒宮神社の神武天皇と愛馬の像

この神社は綺麗に整備されており、地元の人々の神武天皇を尊崇する気持ちが良く伝わってくる。神社内には、神武天皇の像と愛馬の像が並んで立てられている。

               
北面武

 

 

※鹿児島神宮(大隅正八幡宮)

鹿児島県霧島市  鹿児島神宮勅使殿
鹿児島県霧島市  鹿児島神宮勅使殿

御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えらている。
【御祭神】天津日高彦火火出見尊(山幸彦)
     豊玉比売命
【住 所】鹿児島県霧島市隼人町内2496-1
【H P】http://www.kagoshima-jingu.jp/

 

※宮浦宮(宮浦大明神)

鹿児島県霧島市  宮浦宮
鹿児島県霧島市  宮浦宮

【御祭神】神武天皇
     天神七代 (国常立神、豊雲野神、宇比地邇神と須比地邇神、角杙神と活杙神、意富斗能地神と大斗乃辨神、淤母陀琉神と阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神と伊邪那美神)
     地神五代 (天照大御神、天忍穂耳尊、天津日高彦火邇々杵尊、天津日高彦火々出見尊、天津日高彦波限建鵜葺草葺不合尊の神武天皇以前の皇祖5代)
【住 所】鹿児島県霧島市福山町福山2437

 

※駒宮神社
ご祭神の神武天皇が宮崎の地まで行かれるまでの数年間、この神殿に滞在されたといわれている。日向シャンシャン馬(新婚夫婦が鵜戸神宮へお参りする風習)発祥の地でもある。
【御祭神】神武天皇
【住 所】宮崎県日南市平山1095
【H P】http://www.http://komamiya-shrine.jp/access/

天孫邇邇芸命と木花咲耶姫

ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)に関してまだ調べていないことがあり、気になっていたので少し温かくなったこの週末に、改めて九州最南端の鹿児島まで取材に行くことにした。

鹿児島県南さつま市金峰町 木花咲耶姫 の 立像
鹿児島県南さつま市金峰町 木花咲耶姫 の 立像

それにしても、高速に乗らずにトコトコと一般道を走って福岡から鹿児島まで行くのは実際に時間がかかる。

朝に大川を出発し、目的地の鹿児島の南さつま市に着いたのは、日没寸前の5時半であった。

古事記によれば、天孫ニニギノミコトは、高天ヶ原から下界に降りて来た後、国つ神の娘である絶世の美人のコノハナサクヤヒメと出逢うことになる。

その場所は、「笠沙の岬」と書かれている。

だが、現在はこの地名は残っていない。私も気残りではあったが、そのままにしていた。だが、たまたま最近購入した本の中に「薩摩半島の南西端の野間岬は笠沙の岬の有力な候補地」と書かれていたのである。

もともとニニギノミコトが高千穂の峰に降りた時、ミコトは「ここは韓国に向かい、笠沙の岬にもまっすぐに通じ、朝日がまっすぐに射す国、夕日が輝く国である。とてもよい地だ」と言ったとある。
それでは、ここを訪れない訳にはいかない。そこで、中島君と一緒にトコトコと出かける次第になった。

鹿児島県南さつま市金峰町  木花咲耶姫 の 立像の案内板
鹿児島県南さつま市金峰町  木花咲耶姫 の 立像の案内板

南さつま市に入ると早速、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出逢う機会を得た。野間岬を目指して行く国道の途中に道の駅があり、そこに木花咲耶姫の像が立っていた。

これは地元の金峰町の人々が立てたものだが、なかなか可憐なヒメの像である。その像の隣に立つ解説の看板には、「この金峰町一帯は、神代の昔から阿多と呼ばれた」と古事記の記述を補完している。

その後、国道ん20キロ近く走って野間岬に着いた時は、日没寸前だった。

鹿児島県南さつま市 ニニギノミコトと木花咲耶姫が出会ったとされる 笠沙の岬
鹿児島県南さつま市 ニニギノミコトと木花咲耶姫が出会ったとされる 笠沙の岬

岸壁からは、東シナ海が望見でき、夕日が照って眺めはなかなかよかった。
でも、現地に来てみてこの岬で果たしてニニギノミコトがコノハナサクヤヒメと出会ったのかとなると、私には西都市の「逢初(あいそめ)川」のほとりの方が、名前もロマンチックだし二人の出逢いにはピッタリな気がした。

                 
北面武士