三島由紀夫の自決と私

三島由紀夫氏は、私たち民族派学生のいわば「教祖的な存在」であった

1970.市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫烈士
1970.市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫烈士

週刊現代が今週号で、三島事件が発生した当時の周囲にいた人間三人による鼎談を企画している。

三島事件が発生した当時に民族派の学生運動に関係していた私たちは、多かれ少なかれこの事件に関係している。

今回、その当時の私の記憶を記しておこう。

私が日比谷高校から一浪を経て東大に合格したのは、昭和41年春だった。当時はまだ学園紛争は一部の大学でしか起きておらず、全体的には静かなものだった。だが学費値上げに伴う学園紛争は、すでに有名大学では早稲田大学で起きていた。

当時東大教養学部に在籍していた私は、高校時代の友人が早稲田大学商学部の二年生で学園紛争に巻き込まれていたこともあり、私は面白いものだからしょっちゅう早稲田大学に通っていた。

そうした中で同大学のいくつかの民族派のサークルの人たちと仲良くなった。その一人が、その後一水会を作る鈴木邦男氏であり、また三島氏と自決する森田必勝氏であった。

三島由紀夫氏は、当時「反革命宣言」や「文化防衛論」など民族的な論文を雑誌などに発表しており、私たち民族派学生のいわば「教祖的な存在」でした。

私は、二年生の時に東大教養学部内に「国策研究会」を作り、民族派の狼煙を上げたのです。

その後、東大内でも学園紛争が拡大し、国策研究会は「日本文化研究会」なるよりニュートラルな名称に変わり、より広範囲な学生を結集することになります。

三島氏は、その後「盾の会」を作りますが、東大から参加した人間はいなかったと思います。

参加したのは、早稲田大学の民族派の学生、ならびに「全国学協」の一部学生が中心でした。

三島事件が発生した時、私は法学部の四年生でしたが、大きな衝撃を受け、とるものもとりあえず市ヶ谷の自衛隊総監部に行き、自決した二人の冥福を祈りに行きました。確かテレビの取材も受けたように思います。

事件からすでに47年経つが、当時の記憶はまだ鮮明に残っており、私たち残された者の使命はますます大きくなっている。

                      

北面武士