西南戦争 西郷隆盛先生終焉の地

西郷軍は、鹿児島に帰って後、城山に立てこもりました。政府軍に包囲されて猛攻を受け、洞窟にこもるなどして抵抗した西郷軍は20日以上の戦闘むなしく負けます。

鹿児島  南洲公終焉の地

鹿児島  西郷南洲翁終焉の地

明治10年9月24日、西郷さんは洞窟から300メートルほど出て歩いて敵弾を受け「晋ドン、もうここらでよか」と言い、東を向き皇居を伏し拝んで自刃します。その西郷さんを別府晋介が介錯したのです。享年51歳でした。

ずっと副官として西郷さんを支え続けてきた桐野利秋も、その死を見届けたのち自刃しました。ここに明治維新以降の最大の内戦となった西南戦争が終結します。

西郷隆盛先生は死後も慕われ続けました。

鹿児島  南洲墓地 西郷さんの墓

鹿児島  南洲墓地 西郷さんの墓

先生死して後、二年後に南州墓地が設立されると西南戦争で死去した二千人以上の遺族が、先生のそばに墓を置かせて欲しいとの希望者が膨れ上がり先生を中心に西南戦役の西郷軍の面々の墓が整然と並ぶようになったのです。

地元の人の話では、墓は各地のそれぞれの家にあったものをわざわざ移設したと言います。

だから南州墓地の墓石はてんでんバラバラだし、字体もバラバラなのです。でもそのような墓が、西郷先生を中心に整然と並ぶ様は、まさに壮観と言わざるを得ません。                    

北面武士 

 

※南州墓地
西南戦争後、政府軍は県令岩村通俊の願いを聞き、西郷隆盛以下40人を浄光明寺の境内に仮埋葬することを許した。このほか120人が、不断光院・草牟田・新照院の上・城ヶ谷の4ヵ所に埋葬された。明治12年(1879)有志の者が鹿児島市内に仮葬されていた220余人の遺骨をまとめて、知事の許可を得て、西郷以下の仮埋葬遺体と共に現在の位置に整然と改葬した。明治16年(1883)薩摩・大隅・日向・豊後などの各地で戦死した遺骨も集められ、この墓地に埋葬された。
ここには749基の墓石があり、明治10年(1877)西南の役に敗れた薩軍2023人の将士が眠っている。西郷隆盛を中心に桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武の勇将をはじめ、鹿児島県令(初代県知事)大山綱良、わずか14才であった最年少の伊地知末吉、池田孝太郎、児玉5人兄弟や遠く西郷を慕って参加した山形県庄内の伴兼之・榊原政治の2名、福岡、大分、山梨の各県出身者の名も見られる。
昭和30年(1955)、鹿児島県の記念物(史跡)に指定された。       (維新のふるさと鹿児島市HPより)

南洲墓地の北隣には、南洲神社がある。